學に呼ばれることになつたと聞いて居ります。併しながら其の初めは別に考古學を講義するには及ばぬ、それよりも丁度瀧精一氏が講師として日本美術史の講義をして居られた後を承けて、暫く美術史をやれとの事で(私はそれ迄東京の國華社に居りその方面の仕事をやつて居つたのでありました)、赴任以來兩三年の間、私は哲學科の講義として一時間宛日本美術史を講じて居りましたが、四十五年頃から將來留學の際の準備として、歐州の考古學を少し研究せよとの事で、その方の講義をも一時間宛やり出しました。是が我が大學に考古學と云ふ名のつく講義の始まつた最初であります。當時史學科の諸教授は私が大學に於いて、或は高等學校に於いて教を受けたことのある諸先生であり、いづれも或は日本、或は支那、西洋に關する考古學に關して深い興味のある方ばかりでありましたので、何くれとなく考古學教室の完成に向つて同情ある助力を致され、それが結成して今日の如き體容を整へるに至つたことを思ひますと、感慨無量でありまして、此等大方は物故せられました諸先生に對して、今更ながら深い感謝の情を禁じ得ないものがあるのであります。それで内田、原兩先生の如きは、私に東京へ
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