考古學教室の思ひ出話
濱田耕作
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【テキスト中に現れる記号について】
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いろ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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明治四十二年史學科の組織が略ぼ出來上つた次の年の九月に、私は講師として始めて本學へやつて來たのでありますから、創立の際に關する事は一向私には分りませんので、たゞ考古學教室に關することだけに就いて少しく申上げることに致します。
東京帝國大學には理學部に人類學の講座があり、坪井正五郎先生が其の教授として、傍ら考古學の講義をせられて居ましたので、私なども文科の學生でありますが、之を聽きに行つて居りました。處が京都帝國大學で史學科を設けることになつては、どうしても將來考古學の講座を作らなければならないと云ふ考が、創設の際から内田、原、桑原、小川、内藤、三浦などの諸教授の間にあつて、それを何うするかと云ふ問題になりまして、出來上つた學者を聘するよりも、若い人間を養成しようと云ふことになり、遂に私如きものが本學に呼ばれることになつたと聞いて居ります。併しながら其の初めは別に考古學を講義するには及ばぬ、それよりも丁度瀧精一氏が講師として日本美術史の講義をして居られた後を承けて、暫く美術史をやれとの事で(私はそれ迄東京の國華社に居りその方面の仕事をやつて居つたのでありました)、赴任以來兩三年の間、私は哲學科の講義として一時間宛日本美術史を講じて居りましたが、四十五年頃から將來留學の際の準備として、歐州の考古學を少し研究せよとの事で、その方の講義をも一時間宛やり出しました。是が我が大學に考古學と云ふ名のつく講義の始まつた最初であります。當時史學科の諸教授は私が大學に於いて、或は高等學校に於いて教を受けたことのある諸先生であり、いづれも或は日本、或は支那、西洋に關する考古學に關して深い興味のある方ばかりでありましたので、何くれとなく考古學教室の完成に向つて同情ある助力を致され、それが結成して今日の如き體容を整へるに至つたことを思ひますと、感慨無量でありまして、此等大方は物故せられました諸先生に對して、今更ながら深い感謝の情を禁じ得ないものがあるのであります。それで内田、原兩先生の如きは、私に東京へ
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