の旅行などは差し留め、連年九州へ神籠石などの調査を命じられ、内藤、狩野、小川三博士などは、將來支那や滿洲へ調査に行かねばならぬからと云つて、北京へ敦煌の經卷を調査に行く際に私を引つぱつて行かれ、私は始めて洛陽まで旅行し、滿洲へも廻つて發掘をやることになりました。坂口先生に御伴をして宮崎縣西都原の古墳發掘にも行きましたが、此等は皆な私が講師として留學以前のことであつて、諸先生の若い人を如何に懇切に熱心に指導誘掖せられたかを、今日に至つてつく/″\と感佩する次第であります。そして次の年からは書物を買ふ費用として考古學は先づ五百圓の金を貰ふことになつたのであります。
明治四十五年即ち大正元年、幸にも英佛獨に三年間私は留學の命を受けることになりましたのも、當時留學生の少い時分に於きまして、諸先生の盡力同情の頗る大なるものがあつたことを想像致されるのであります。私は留學中埃及考古學の權威である英國のペトリー教授の指導を受け、また前年日本へ來朝され、已に知を辱うしたセイス先生の懇情に浴し、その他ドウキンス先生、リヂウエー先生などの厚意を忝うし、不勉強の私も自から彼地の學界の空氣、研究法などを體得する機會を得ましたが、生憎世界大戰爭が其の間に勃發したので、英國に二年滯留し、獨逸をやめて伊太利、希臘に行き佛蘭西に遊び、大正五年二月歸朝することになりました。
嬉しいことには、此の間に我が陳列館の建築は第一期の工事を終へて、私の歸朝を待受けて居り、今日と雖も未だ東京に置かれて居ない考古學の講座も官制によつて設けられて居ましたので、私は其据膳につくことになりましたのは、自分一人の幸福と云ふよりも、斯學の大なる幸福でありました。留學前美術の研究室の一隅に、或は地理學教室中に寄生して居りました考古學の標本も、已に陳列館に運ばれ、私の留學中を管理して居られた今西龍君等の手によつて、チヤンと整頓せられて居りました。併し此の頃は未だ大學所藏の標本も少く、借入品が多かつたのですが追々と之を返へして、今では本學の物だけでも這入り切らない位になつて居ります。また陳列館が追々増築せられて、昭和四年北翼が完成しましてからは、陳列室を此の部分に移し、今日に至つて居りますが、研究室は始めから今の南室の處であり、その頃から色々の人が自由に出入し、煙草の煙と茶話會が行はれるので、「カフエー・アルケオルギー」の名
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