温泉雜記
濱田耕作

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          一 希臘テルモピレーの温泉

「旅人よ、ラコニヤ人に告げよ。我等は其の命に從ひて此處に眠れりと」これはスパルタ國王レオニダスが紀元前四八〇年、寡兵を以てマケドニヤの強敵と戰ひ、テルモピレーの險に其の屍を埋めた戰場に立てられた記念の碑銘であつたことは、苟も希臘史を學んだものは記憶するであらう。併し此のテルモピレーが温泉の湧出地であることは、往々にして注意せられないかも知れない。「テルモ」は「熱い」と言ふ義であり、「ピレー」は門の意であれば、テルモピレーは即ち熱門とも譯す可きで、オエタの山がマリオコス灣に逼つて、ロクリスからテスサリヤに入る道が丁度此のテルモピレーの險阻を過ぎるのである。レオニダスの時より二千五百年の星霜を經て、桑田碧海の變と言ふ程では無いが、地形の變化は此のテルモピレーも埋められ、嶮崖は海岸線から稍々遠く距つて、緩傾斜になつて仕舞つた。併し名に負ふ温泉は、今も華氏百〇四度の温度を保つて硫黄泉として存在して居る。其の水の色は青緑色の海水の如く、「キトロイ」と稱する陶槽を用ゐて此地の住民が之を利用して居つたことは、紀元一世紀の「希臘のベデカー」であつたパウサニアスが夙に記して居る處である。私は二ヶ月の希臘旅行中、此のテルモピレーを訪ね得なかつたことは、最も殘念に思つた處の一であつて、ケロニヤから南下する時にテスサリヤの山を望んで幾度か嘆息した所であつた。

          二 伊太利の古い温泉

 火山國である伊太利に温泉が豐富であることは今更言ふ迄もないことであり、羅馬人の以前早くエトルスキも、エトルリヤ各地に湧き出でる温泉を利用したことは想像に足る。例へばヴイテルボの附近にある古へのアクワ、パスセリスの地の如きは其の一であるが、エトルスキ時代の浴場の設備の著しいものは殘つて居ない。浴場は希臘に於いても格段なものは少く、羅馬に至つて遂に宏大な「テルメ」なるものが發現したが、此等は多く自然の温泉場ではなくて、大都會に於いて人工を以て冷水乃至高温の浴を取る爲めに作られたものである。併し隨所に湧出する天然の温泉は羅馬人によつて利用せられ、そこに別莊の如きものが出來、氣持のよい小浴場が設けられたことは言ふに及ばぬことである。
 羅馬附近にはチヴオリへ行く道にバーニと稱する驛があり、今も臭い硫黄泉が出てゐることは、車中からも旅客が見る處である。こゝは古へはアクワアルブーレエと稱せられた處である。ナポリ附近フラグレイアの野は火山地帶であつて、此處に幾多の火山と温泉が連續して居ることは、地質學者も考古學者も將た觀光の風流人も先刻知り拔いてゐる處であるが、これは思ふに海水浴と共に、温泉によつて羅馬以來繁昌したもので、ポツオリからバイヤに至る沿道の海岸には、當代の別墅の遺址が累々として列つてゐる。就中「ネロ帝の浴場」と名づけられるものは、海に突出した丘陵に穿たれた洞窟で、中には非常に高温な湯の出る處がある。私は其の中に案内せられて息のつまる樣な苦しみを覺え、少女がバケツに汲み出す熱湯に驚いたことである。別府などなれば「何々地獄」とでも命名せらる可きものであらう。ポツオリの「セラペウム」には羅馬時代のコリント式の柱が立つて居り、其れに附著した貝殼によつて、嘗て十餘尺も深く海水中に沒され、中世此の邊が二十尺程も土地が低下し、其後十六世紀頃から隆起し、今日では再び沈下しつゝある面白い標本を見られることは、ライエル氏の唱道して以來有名なものである。

          三 英國バースの羅馬の温泉場

 天然の温泉に設けた羅馬の浴場としては、英國のバースが最も有名なものであらう。停車場附近の安宿に泊り、忙しく驅け廻つた私は、洋服を脱いで風呂に入ることの面倒さに煩はされて、たゞ其の遺跡を見物した丈けで遂に一浴をも試みなかつた。浴後浴衣がけで風情を呼ぶことが出來ない温泉場は、到底我々の興味を惹かない。
 バースの温泉は硫化カルシウム及びソヂウムを主とする鑛泉で、温度は華氏百二十度の高きに達するものがある。傳説によればブラダツド王が癩病になつて、此の温泉を發見して浴したのが紀元前八百六十三年であると言はれるが、羅馬以前に英人が此處に町を設けたことは未だ確證がない。羅馬征服後に至つて此地に小さい市街が發達し、「アクワ、スーリス」の名を以て呼ばれ、大きな浴場が造られ、神祠が立てられたことは、近年考古學的發掘の結果多くの遺物を發見して明かになつた。小さい博物館とポンプ室には、此等の發掘品が
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