並べてあるが、浴場址は長方形で、之に附屬した小さい浴場が見られる。浴場の二階で數々の羅馬皇帝の胸像の並んでゐるのを見ながら、一杯の茶をすゝつたのは、私のバースに於ける唯一の贅澤であつた。故原博士は此のバースに滯在中のセイス老先生を訪ねられたと言ふことであるが、心ゆく友と長閑な日を悠々と此處に暮して、羅馬の遺物を訪ひ、靈泉に浴したならば、之に越したる好い土地は英國でも少からう。

          四 朝鮮龍岡の温井里

 話は飛んで朝鮮の温泉となる。南鮮には東莱の温泉があり、北鮮には近頃繁昌しつゝある沙里院附近の温泉があるさうだが、私の知つて居るのはたゞ平南龍岡温井里温泉丈けである。併し此の温泉ほど物淋しい田舍びた、而して氣持のよい處は他にあるまいと思ふ。
 數年前又た再び來ることは無からうと別を惜んだ此の温泉に、私は今年の四月ゆくりなくも再び訪ねる機會を得たのは嬉しいことであつた。眞池洞から龍岡を經て、※[#「禾+占」、178−10]蝉縣の古碑を横ぎりながら温井里に着いたのは、暮色蒼然たる頃であつた。浴客の姿も見ない廣々とした浴場に、下婢も居ず、主婦に背中を流してもらへば、客足の少ない此の地に遙々と來て、業を營む人の身の上に同情の涙を催すのみである。一浴してツト家を出づれば、折しも滿月に近い月は團々として東の山の上にあがつてゐる。蒼茫として海につゞく平野は西に廣がつて、ラムプの薄明りに光る※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]が一つ二つ、白い衣服の鮮人が二つ三つ其のあたりを徘徊する荒凉寂寥たる此の景色が所謂温泉場と思へようか。
 私は以前に※[#「禾+占」、179−4]蝉の碑を訪ねて、晩秋の淋しい日、夕暗に鎖されて行く※[#「禾+占」、179−4]蝉縣址と、黄色に色映ゆる海邊とを丘陵の上から見た。而して此の朝鮮最古の漢碑を殘した樂浪の人々が、矢張病を之に醫したこともあつたらうと思はざるを得なかつた。而して又た此の丘陵を登つて、遙かに故國を望んで涙を濺いだこともあつたらうと想像して、自分等の旅の終に近づいた喜びと思ひ比べたことであつた。而かも彼等樂浪の民の多くは、屍を異郷に埋めて我等の發掘する古墳の白骨と化したでは無いか。
 龍岡の温泉は私には限りない哀愁をそゝる。

          五 滿洲の温泉

 朝鮮の温泉から私の記憶は滿洲の温泉に移らざるを得ない。既に十餘年の昔語となつたが、如舟博士と滿洲を歩いた時のことである。熊岳城から蘆家屯附近にある漢代頃の貝墓を發掘して、一夜遲くトロに乘つて高梁畠を過ぎ温泉へ出掛けた。十二時過ぎに案内せられる儘、川原の中にあるバラツク造りの湯に這入つた時は、如何にも夢の樣とも言はうか、狐につまゝれた樣とも言ふ可きか。而かも其の湯槽は肥溜でなく靈驗あらたかなる温泉である。但し此の邊には顏の白い狐が化けて出るとは其後聞き及んだことである。併し今は此の温泉の設備もスツカリ變つてしまつたことゝ想像せられる。
 湯崗子の温泉へは千山登りの際に一泊した。これは立派な洋館造りの旅館であつたが、湯の色は熊岳城に比してキタない。こゝから一人の支那人を雇ひ、荷馬車に乘つて、ゴロ石の河原通を一人千山へ登つたのは思出深い旅であつた。南畫の山水にも似た山峯には樓閣が點綴せられ、石徑を高く究むれば、寺觀は巖石の頂に現はれると言ふ奇拔な景色を賞し、山上の客舍に蝋燭を點じて、たゞ一人毛布に包まつて眠に就いた時の淋しさ。案内の支那人は遠く去つて寺で宿ると言ふ。若し千山が馬賊の巣窟と、はじめから聞いて居つては此の旅は流石に出來なかつたらう。「明天點鐘爾來」と怪しげな支那語が通じたと見えて、翌朝早く件の支那人が來た時には蘇生の思ひをした。温泉に關係もない旅行談は餘り過ぎると叱られるから之で止める。

          六 日本の温泉

 日本の温泉に私の這入つたのは、山形縣上の山温泉が抑も最初で、七歳の時である。隣家のT氏の家族に連れられて行つたと覺えてゐるが、會津屋と言ふ旅籠の廣い浴槽で泳ぎ廻つた嬉しさ。私の少年時代の追憶として、T氏の令息との友情と共に忘れ難いものゝ隨一である。會津屋の婆さんは、夙くの昔に世を去つたのであらうが、當時一歳下のN君は今や敏腕の外交官となつてゐる。伊豆の熱海から伊東、修善寺、湯ヶ島の温泉と廻り歩いたのは、大學時代の修學旅行であり、箱根、鹽原の温泉は中學の生徒を引率して行つたのが始めである。城の崎の温泉は應擧寺を見に行つた時に始めて這入り、薩摩指宿の温泉は石器時代の遺跡を掘りに行つて經驗した。此の開門嶽麓の温泉は、定めし石器時代の人民も知つて居つたことであらうが、日本中で今日でもなほ石器時代の温泉と言ふ可き原始的の處である。加賀の山中や豐後の別府は、近年漸く足を踏み入れた。
 併し私は必し
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