の村では高倉を見、また山原の女が額から掛けた竹籠を脊に運ぶのを見た。此の竹籠を一つ買ふことにし、或る店に頼んで歸りがけに受取ることにした。これから先きの街道人家の前には、例の豆腐を並べて賣つてゐるのが行列をしてゐた。運天の港には裏山から這入り、先づ東郷大將の筆になる源爲朝上陸の碑のある處に登ると、小さいキレイな港が眼下に廣がつてゐるが、碇泊してゐるのは、爲朝でも乘つて來さうな小船が一つ二つ、永萬元年鎭西八郎が運を天に任せて、逆卷く怒濤を冒して此の港に辿り着いたか否かは、史實として證明しかねるとしても、慶長十四年島津氏が百艘の船を以て琉球入をしたのは確かに此處からであつた。
一七 百按司墓
爲朝の碑の下山腹の懸崖には、有名な百按司《もゝぢやふ》の墓といふ古いガマ墓がある。樹の繁みを分けて行つて見ると、多くの墓のうちにも今は石垣を圍らした洞穴がある。垣を越えて内へ這入つて見ると、木棺が數箇已に朽ち果てゝ、中から白骨が無慘に露出してゐる具合は、上ン土の墓を暴露した樣なものである。菊池幽芳氏の『琉球と爲朝』には、其の木棺の一に「ゑさしのあし」と墨書したものがあつたとある。又「弘治十三年九月」云々の字があつたとも言ふから、大體の年代は知ることが出來るが、古くからある此の墓所に、その後新しい時代、否な最近にも骨を持ち込んだに違ひない。幽芳氏の本やシモン氏の論文には、此の墓の委しい記事があるから、其れを見ることにし、私は氣味の惡い此の墓を怱々遁げ出した。
此の墓に就いては、或は四百年前亡んだ尚徳王の遺臣を葬つたのであると言ひ、或は尚巴志王に亡ぼされた北山の王族の墓であるとも言ふが、とにかく慶長頃即ち三百餘年前、北山王の末裔が六百數十金を投じて之を修理し、木造の社殿を作つたことは事實で、幽芳氏は其の圖を著書中に載せてゐる。
山を下つて懸崖の下に作られてある稍々新しい墓を覗くと、之には中に骨壺が一ぱい、奧の方には木棺や、白骨がウヨ/\してゐる。私はこんな墓を調査に此の村へ滯在し、白骨と枕を並べて寢たT・K博士の熱心には、專門の學問とは言へ敬服せざるを得ない。
一八 今歸仁城と勾玉
今歸仁と書いて「ナキジン」と讀むことを覺えたのも、沖繩へ着いて以來、即ち數日前からのことであるが、此の北山王の故城のある今歸仁の城にこれから出かけるのである。今泊の村から丘陵を登つて、昔家屋敷のあつたアタイ原と言ふ處を通ると、兩側には蘇鐵などの庭木が昔ながらの庭園の跡を偲ばせる。山の上本丸の址には今歸仁城の碑があり、小さな神殿もあるが、一體に石垣がよく殘つて居り、物見櫓の跡もある。規模の大なることも遙に中城などを凌いでゐる。殊に東は懸崖數十丈、その下に淙々たる溪川が流れ、此の伊平屋島[#「伊平屋島」は底本では「伊乎屋島」]を指呼の間に眺める景色は譬へ難い美しさである。山上に愛創石[#「愛創石」は「受劍石」の誤りか]と言ふのがあつて、此の北山陷落の際、勇將攀安知が力盡き自盡せんとする前、日頃禮拜して居た靈石の驗なきを憤慨して、刀を以て兩斷したものであると言ふ凄じい石である。而して其の刀は今なほ尚侯爵家に傳はつてゐると聞いた。
山を下つた所に、丁度島袋君の岳父の家があるので、一同其處に御厄介になつて中食を使ひ、又々島袋君の手廻しで、今歸仁のノロクモイの傳へてゐる勾玉(一ヶ)と、今泊の阿應理惠按司の勾玉(廿一箇)や、玉草履を持參してもらつて見ることを得たのは何よりの幸であつた。殊に後者には呉形勾玉二箇、出雲石のもの一箇、大抵はT字頭を有し、其の石質の白味のある硬玉であることから、形状製作に至るまで、いづれも朝鮮新羅の勾玉に酷似してゐると見るは、琉球勾玉の本質、延いては勾玉全體の考察に重大なる寄與をなす事實であると思はれた。何分にも時間がなく、前から頼んで置いた恩納村の人々は、定めし踊りを見せようと待つてゐられることゝ氣がせかれるので、詳しい調査は、一度島田君にでも來てもらつてすることにして、二時頃名護に引きかへす。
[#「第一七圖 國頭郡今歸仁村今泊阿應理惠按司勾玉」のキャプション付きの図(fig4990_07.png)入る]
一九 恩納の臼太鼓踊
恩納《おんな》村の谷茶《たんちや》では、先年那覇へ其の古い郷土の踊を出したことがあるので、あれを名護から歸りに見ては何うかとの島袋君の話に、それは何よりも有難い仕合と御願ひをした處、谷茶の村人は私の爲めに村の婦人多勢を繰出し、二日前から練習をしてゐるとの事を往路に聞かされてから、これは大變な迷惑をかけることになつたと後悔しても致し方がない。折角の事故せめて少しでも長い時間拜見しようと、今歸仁から車を飛ばせて、名護に小休みの暇もなく、谷茶の村に著いたのは、それでも豫定より一時間も遲れた午後四時過ぎであつた。
早速區長さんに案内されて、街道の裏の神山の廣場に登ると、其の道筋さへ新に手入れがしてあり、廣場の附近には多勢の見物人が集つて、宛ら御祭りのやうである。半圓形にしつらへた席には、既に見物の人が坐り込んで、私の來るのを今か/\と待つて居られ、盛裝した踊り子の婦人老若四五十名は、用意全く終つてシビレを切らして居られる有樣に、私は今迄自分一個の爲めに斯くばかりの催しを受けたことがなく、たゞ/\恐縮と感謝との念に心一ぱいになつたのである。
やがて臼太鼓《うすでーこ》の踊が始まつた。歌舞のことに就いて一向知識のない私には、善くも分らないが、四十人ばかりの婦人が二つの大きな輪を作り、外の方は年の取つた人々で、其の一端には、最も年上の五十位のお婆さん連が八人、紫や紅の布を頭に卷き太鼓を持ち、他の人々は皆な四つ竹や扇子、拂子樣のものを手にしてゐる。内の方の輪は年の若い娘さんで、紫や水色の長い布を髮から垂れてゐる。先頭の人が音頭を取ると、一同歌をうたひ足取りをするのであるが、其の進みは非常に遲く、ピツチは甚だ緩かに動作は變化に乏しいのが、即ち此の最も古い臼太鼓の歌舞の特徴であるから致し方はない。
[#「第一八圖 恩納の臼太鼓踊」のキャプション付きの図(fig4990_08.png)入る]
歌詞は幸ひ謄寫版で印刷してあるのを呉れられたので、それを辿りながら聞いて居つても中々附いて行けぬ。先づ
[#ここから1字下げ]
首里天加那志《シユリテンガナシ》 百歳《モヽト》まで賜《タポ》れ
御萬人《ウマンチユ》の間切《マギリ》 拜《ウガ》でしやでびら
[#ここで字下げ終わり]
と言ふのに始まり、歌の全部を歌へば四時間もかゝると言ふのに驚いて、割愛して餘程端折つてもらふことにした。長い歌の中、二三を標本的に擧げて見れば次の樣なものがある。
[#ここから4字下げ]
十七八ぐるやな 女《ヲンナ》のさかい
八つと九つや ちゞのさかい」
思ゆらはさとめ かた夜暗《ユヤシ》いもり
月《チヽユ》の夜にいもち なくしたちゆさ」
泊帆舟小《トマイマーラングワ》や 浮《ウ》ちよてちびふゆさ
だちよてちびふゆぬ かぢどーあやーめー」
[#ここで字下げ終わり]
但しこの例とても、私に意味が善く分かつたと言ふのではない。臼太鼓がすんで若い娘さん達の組踊數番があつたが、凡て踊り手は足袋はだしか、或は全くの裸足である。
私自身よりも郷土研究家島袋君が、大いに感服して眺め入つて居られたが、日はだん/\西の海に沈んでしまふ有樣に、村の衆に此の類なき厚意を感謝し、別を惜んで那覇に向つたが、私は此親切純朴な恩納の人々の厚意を永久に心に銘じて忘るゝ事が出來ない。
二〇 辻遊廓の瞥見
歸途は海沿ひの街道を嘉手納に出で、始めて輕便鐵道の列車の走るのを見た。街道筋には廣い道幅のある村落があり、又大きな松の並木が續いて居る中を、時々すれ違ふ自動車のヘッドライトに、假睡に落ちようとする眼を醒させながら、那覇の町へ這入つたのは午後七時過ぎ、二日ぶりに電車の走るのを見るのも、流石に都らしく懷かしい思ひがした。
南は糸滿から南山城、北に名護運天から北山城をも訪ね得た私は、これで先づ/\琉球一見の目的を達したのを喜んだが、宿まで送り届けて下さつた小竹君は、イヤ未だ一つ重要な見物場處が殘つてゐる。それは即ち有名な辻遊廓である。御疲れでなくば後から御案内致しませうとの事に、如何にも那覇に到著以來、毎々聞かされた此の遊廓を瞥見しなければ、何だか濟まぬ氣がしたので、夕食後○君の同道を煩はすことに決心した。
辻の遊廓の起原は古く、寛文十二年(康熙十一年)方々に散ばつて居つた尾類《ズリ》、即ち女郎をこゝに集めたのに始まるのであるが、明治四十一年仲島渡地の娼家をも併せてから、益々繁昌して今日に至つたと言ふ事である。那覇の他の民家とは違つて、青樓は多く二階屋であるが、固より大した大厦高樓ではない。此一廓では夜の九時頃は未だホンの宵の口であらうが、それでも嫖客の往來で大分賑つてゐる。板敷の廊下に續いた玄關には、どの家にも二三の女が立ち現はれてゐるが、強ひて客を引ぱつてゐるのは餘り見受けなかつた。否、初現の客がウカ/\這入つてでも行かうものなら、「あちやめんそーり」(明日御出で候へ)と體よく斷られるとの事で、數年前我がS・K君は哀れ其の運命を負はれたと聞いた。
私は○君の案内があるので、「竹の家」とか言ふ家に上り、大いに(?)歡迎せられたのは有難い仕合せであつた。女連は別々の部屋を持つて居り、内部は美しく飾つてあり、夜具棚の中にあるキレイな蒲團まで善く見える處などは、丁度朝鮮平壤で見た妓生の部屋と同じであつた。私達は階上の大きな座敷に請ぜられると、○君舊知の妓|鶴《チル》さんが出て來て泡盛の杯を酌み、蜜柑等をむいて呉れる。別に食物等を多く出すのではなく、その代り鶴さんの朋輩の女達が、三四人入れ代り立ち代り這入つて來て接待する。私達は鶴さんに踊りを所望すると、他の老妓の蛇皮線に合せて、彼女は例の紺ガスリ、前結びの帶、櫛髮風の姿で、いろ/\の踊を舞ふ。其の手振り足振りの優しさは、此間劇場で見たのとは又違つた御座敷のしめやかさが漂ふ。私の短い沖繩の旅も今宵限り、南島の情緒溢れる此の島に、又何時訪ね來ることが出來ようかと思へば、可憐な島の女の舞踊に、しみ/″\と名殘が惜まれるではないか。僅かばかりの纏頭にも、彼女達は感謝を捧げて、一時間ばかりの後私達は鶴さんの握手に送られて寶來館へ無事歸り著いた。
辻の遊廓は所謂遊廓の目的の外に、實はカフエー、レストラン、サロンなどの各種の設備としての意義をも具へてゐる處が面白い。將官教員などの宴會も以前は多く此處で開かれ、甚しきは婦人會さへ催されたことがあると言ふ。蓋し最も輕便安値であり、而かも最も朗かな氣分を與へるからであらう。一方から言へば各種の社交機關が、未だ分化しない状態にあると言つても宜いが、同時に又女連は女給であり、藝妓であり、又娼妓である凡ての性質を保存してゐる處に善い點がある。從つて此の遊廓に出入することは、必しも士君子の排斥を買ふことでないとも聞いたが、歸洛後伊波君の『沖繩女性史』を拜見すると、斯の如きは明治維新後、内地から獨身者の縣官などが來て、自から馴致した惡風であると書いてあつたので恐入つてしまつたが、それにしても彼等は朝鮮の妓生と共に、昔の白拍子的の遺風を傳へてゐる、現代に於ける可憐なる一つの存在である。之を呼ぶに尾類《ズリ》の文字を以てするのは、如何にも殘酷な氣持がすると思ふのは私ばかりではあるまい。
二一 識名園、沖繩の別れ
昨夜遲く宿へ歸ると、病院の中川君が待つて居られて、古い琉球の型染の衣裳や、下手物の陶器などを持つて來られ、私は坐ながらにして好箇のお土産を獲ることが出來た。さて私の沖繩滯在の最後の日は午前中西山君に伴はれて、小竹君、島袋君と共に、首里の西南部にある尚家の南苑識名園を拜見することが出來た。規模は必しも大きくないが、大體は日本風の庭園で、心字形の池の中島には六角亭があり、
前へ
次へ
全5ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
浜田 青陵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング