きな榕樹の下に滾々と湧出る嘉手志川の源である清泉に、衣洗ふ村娘を眺めながら高嶺村大里の村に入る。こゝは源爲朝が島の運天に上陸して後南遷し、大里按司の女と婚して舜天を生ましめたと云ふ大里村である。この村にノロさんの家が二軒ある。先づ一方の家では如何にも神祕的且つ幽鬱な六十過ぎのノロさんが出て來て、刳拔きの長い大刀箱や、糸目錢などを見せてもらつたが勾玉は傳へて居ない。島袋君がいろ/\と琉球語で質問せられると、「ウーウー」と應へるので、何と云ふ意味かと聞くと「イエス」といふことだとある。それでは「ノウ」はと尋ねると、殆んど同じ「ウウー」であつて唯だ語尾を揚げるのであるとは如何にも面白い。併し私達も「ウー」「ウウン」の兩語を同じ意味に使ひ、之に頭を竪横に動かす運動を添へて、エンフワサイズしてゐることを思ひ出した。
 今一軒のノロの家(西銘ノロ)は美しい芝生の上に殿を作り、庭園なども非常にキレイであり、ノロさんの老婆も頗る快活且つ近代的である。黒砂糖の塊を茶ウケに出され、又々水晶の珠數玉と、一箇の稍古い暗緑色の勾玉を藏してゐる。案内の校長さんから黒砂糖を紙に包んで頂戴し、子供の時喜んで食べたことのある此の絶好の菓子に何十年振に再會したことを喜んだ。

          一二 眞玉橋、琉球劇

 那覇への歸り道は往路とは別に、國場川口に架けられた眞玉橋に出る。これは石造のアーチが中央に三つ開いて居るが、(中央のアーチに眞玉橋、南は世持橋、北を世寄橋と名づけてゐる)。何等の裝飾もなく、却つて簡素堅實の趣を發揮し、實に沖繩第一の名橋と謂ふ可きである。橋の南の袂には「重修眞玉橋碑文」の碑が立つて居り、此の橋が二百餘年前、尚貞王の時代寶永四年から五年にかけ、全島三郡の三十五ヶ間切の人夫、八萬三千餘人を徴して作つたといふ大工事であつたことを勒してゐる。私は北岸から橋を寫生し、午後一時頃那覇の宿に歸り、一休みの暇もなく那覇小學校に出かけて、『日本文明の由來』といふ題で一時間ばかり御喋舌をしたのは辛らかつた。
[#「第一四圖 眞玉橋」のキャプション付きの図(fig4990_04.png)入る]
 併し此の夜は島袋君や福原君の案内で、市中の旭劇場にかゝつてゐる琉球劇『阿摩和利』を見に行つたのは嬉しかつた。劇場は小さく粗末なものではあるが、觀衆の靜肅なのには感心したのみならず、前狂言としての現代劇も中々面白く、見物をして涙を催さしめる場面もあつた。殊に組踊りは男優にして、斯くも女らしく優しく舞へるものかと驚かされた。愈々『阿摩和利』劇となる。これは大體内地の舊劇の仕組であるが、琉球中世の梟雄|阿摩和利《あまわり》を主人公とし、之に配するに其の美しい妻|百十踏揚《もゝとふみあがり》姫などを以てし、變化ある幾多の場面は、今日はじめて島袋福原兩君から此の史劇の荒筋を聞かされた私にさへ、非常な興味を感ぜしめたのであるから、郷土の人には如何に大きな感動を與へたことであらうか想像に餘りある。琉球語の能く分からぬ位は、西洋で言葉の一向分からぬ芝居を屡々見たことのある私には何でもない。却つて若干解し得る言葉が出て來るのが非常に嬉しかつた。夜は更けても劇は中々終らない。併し私は明日早く那覇を立つて、今舞臺で見つゝある阿摩和利の居城|勝連《かつれん》を遠望し、その敵手であつた忠臣|護佐丸《ごさまる》の中城《なかぐすく》をも訪ねんとするのである。餘り遲くなつてはと、兩君よりも一足先きに宿に歸つたのは十一時頃であつた。

          一三 普天間から荻堂貝塚

 第四日目はいよ/\那覇を出發して島袋、豐川、小竹三君と共に、國頭への旅に出かけた。往路は中街道を普天間から荻堂貝塚を訪ね、中城々址を見、伊波貝塚を經て名護に出る豫定であつたが、伊東博士の『木片集』には、先生が凄しい暴風雨に出會つて、中城の城の麓まで行きながら、遂に城址には登られずして引返された恐ろしい經驗が記されてゐる。併し幸ひ今日の日本晴では其の心配もなく、我々は惠まれた天候を感謝する外はなかつた。
 那覇の町はづれ、暫くは失業救濟の道路工事で車の通行も妨げられ勝であつたが、やがて大きな松の並樹――それは尚敬王の時代に蔡温が植ゑた賢明な施設である――のある街道所謂宜野灣の松原に出で、さながら東海道の舊道を走る思ひがする。三里ばかりで普天間《ふてま》に着き、有名な權現祠のある鐘乳洞を見る。如何にも石器時代の住居の址がありさうな洞穴である。喜舍場の小學校の下で校長さんに出迎へられ、一緒に荻堂に向つたが、道は細く山道となり、如何にも危かしく、やう/\荻堂の村に上り著くと、貝塚の持主の人が出られて、村の北手にある貝塚に案内して呉れられた。行つて見ると、これが貝塚かと驚かれる程小さい猫の額の樣な斜面の畠地で、直ぐ崖に接してゐる。貝殼の散布も極く少なく、土器に至つては小破片さへも殆ど見付らない。鳥居君をはじめ、松村君等があれ丈けの發掘物をせられたのも、可成の勞力であつたらうと今更ながら現場を見て感ぜられる。併しとにかく此處は沖繩に於ける最初に發見せられた貝塚として、永久に記憶せらる可き處であらう。
 丘を下つて東に進むと、車はやがて中城々址の丘の麓に停り、我々は車を捨てゝ城址に登つて行く。

          一四 中城々址

 中城《なかぐすく》々址の寫生圖と其の平面圖めいたものは、ペルリの琉球訪問記に載せてあつて、當時艦隊の探檢團が、此の邊までもやつて來たことが詳しく記されてゐる。此の城は大體石垣の具合などは、日本内地の城に似てゐるが、アーチ形の小門などのある處は、如何にも琉球的である。ペルリ艦隊員の賞讃を博した通り頗る面白く出來てゐる。我々は蔦葛の纏つてゐる石垣の上に出で、村役場になつてゐる建物のある本丸の處から眺望を肆にすると、脚下には中城灣の碧波が跳り、直向ひには勝連《かつれん》城のあつた與勝半島が薄紫に浮び出てゐる。實にや此の勝連に城を構へて、中山を睨らんで居た梟傑|阿摩和利《あまわり》に備へんが爲めに、この中城に忠臣|護佐丸《ごさまる》(毛國鼎)が城を構へたのは尚泰久王の時であつた。當時勝連の繁榮と阿摩和利の聲譽は、
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「勝連《かつれん》はなれにぎや譬へる、
 倭《やまと》の鎌倉《かまくら》に譬へる、
 氣も高はなれにぎや」
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とオモロに歌はれ、
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「百踏揚《もゝとふみあがり》や、けさよりやまさて
 百《もゝ》と按司《ちやら》の、主《ぬし》てだ、なりわちへ、
 君の踏揚や、首里《しより》もり城《ぐすく》、
 眞玉《まだま》もりぐすく」
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と羨まれた其の配|百十踏揚《もゝとふみあがり》姫は、私達が昨夜旭劇場で見た美くしい夫人で、尚泰久王の女であつたが、護佐丸を除かんとして阿摩和利は、彼自身に對しての兵を修めてゐるのを以て、却つて王に對して叛逆の志を抱いてゐるのであると讒した。之を信じて王は阿摩和利を將として中城を襲はしめたが、此の時護佐丸は王に申開きをする術もなく、さりとて王の軍勢に抗するを屑とせず、遂に恨を呑んで妻子と共に自殺してしまつたのであるが、此の本丸こそ此の悲劇の演ぜられた舞堂である。國亡びて山河あり、城春にして草木深し、此夜阿摩和利劇を見、今日親しく此の城址に立つた私には殊に感慨が深かつた。
 村役場の建物は床の間などに可成古い跡が殘つてゐるが、固より護佐丸當時のものではなく、護佐丸の遺物と稱する煙草盆の類も、今更評する迄もないが、乾隆五年と十年に出來た此の地方の古い地圖は、郷土研究には非常に參考になると思ふ。我々はやがて喜捨場の小學校へ引き返して、携帶の辨當を使ひ、校長夫人の心盡しになるドウナツの御菓子などを有難く頂戴した。

          一五 伊波貝塚から名護へ

 喜捨場から北進して、氣持のよい田舍道を二時間足らずで伊波へ着いた。こゝでも小學校の校長先生の案内を煩はして、學校の東北にある貝塚へ行く。隆起珊瑚礁が庭石の樣に起伏する間に、蘇鐵の株がこれ亦た庭木の如く繁茂してゐる。「貝塚は此處です」と指された處は、石川村の方に降りる小徑が、階段の樣についてゐる數十尺の懸崖の中腹であるのには驚いてしまつた。此の東方海に向つた崖は、或は昔し脚下に碧波を見る海沿ひであつたにせよ、さても此の危險極る不便な處を選りに選つて、人間が住居を構へるとは不思議の至りである。後で聞けば私共の見た處よりもなほ北方に貝塚の中心はあるのだとのことであるが、それにしても大體の地形は此處と同じであるとの事。私共の見た崖の中腹には貝殼は極く少量散布し、土器の破片も小さいのが稀に見つかる位であつたが、その土器の模樣は、荻堂などと全く同一のやり方であつた。
 伊波貝塚を一瞥した私達は、恩納村の邊で西海岸の縣道に出で、こん度は美しい海岸の或はアダンの防風林、或は面白い岩礁などを送迎しながら、遂に名護の町に著いたのは午後四時近い頃であつた。大きな榕樹の立つてゐる警察署前の通りは、廣場とでも云ふ可くカラツとして氣持よく、如何にも大きな宿場らしい感がする。裏通にある一新館と言ふ宿屋へ納まると、とにかく新築の二階座敷は眺望もよく、東に近く小高い山が見える。あれは名護の南城嶽とて、あの上にノロさんが住んで居り、勾玉を傳へてゐる、「どうです、御疲れでなければ夕食までの間に行つて見ませう」と島袋君に勸められては、實は少々草疲れてはゐたが、勇氣を鼓して出かけることにした。山の上にはノロさんの家があり、そこから少し離れて神社風の小さい神殿が建てられ、その前には拜殿もある。これは全然新式のノロの殿である。丁度此の時ノロさんは其の神殿の前で祷つて居り、その傍に二人の少女とその母親らしい人が二人居るので聞いて見ると、是は本年高等女學校へ入學の出來るやうに祷つてゐるとの話。而かも此の山のノロさんは、現在名護の女學校の生徒であるので、當分親類の女の人が代理をしてゐるのであるといふ。さればこそノロさんの家には女學生の制服や教科書が座敷に見えたのも解せられた。さても此の女學生のノロさんの時代頃に入れば、定めし色々信仰や祭儀にも變化が現はれることであらう。
 ノロさんの家で勾玉と此の地發掘の銅鏡二面を見た。鏡はヤマトの時代で言へば藤原以後、恐くは支那傳來のものと思はれる。更に後ろの神山の上に登つてから宿に歸ると、私達の後を逐つて來た福原君が來著せられ、夕食の後村の青年會の人々十數人が、特に私達の爲めに盆踊りをやつて下さるといふので、洋服に著かへなほして見に行つた。琉球なればこそ此の一月のはじめに、野天で篝火を焚いて踊を見ることが出來るのであり、村人の厚意には深い感謝の念を捧げる外はなかつた。

          一六 上ン土の古墓

 次の日は朝九時神田、福原二君などを加へて、名護の西方小一里にある上《ウエ》ン土《チヤ》の古墓を見に行く。これは島袋君の新に發見せられたもので、化石の澤山ある第三紀層の崖に穿られた洞穴の中に、石棺を澤山收めてあるものである。穴は二つばかりあるが、大きな方の穴の口には、石を以て垣を作つて塞いであるが、それを少し取り除けて中を覗くと、赤や青の彩色ある小さい家形の石棺、或は陶棺、木棺が二十ばかり雜然として並べられ、其の中から白骨が顏を出してゐる無氣味さよ。こゝは名護の古い時代の墓地であらうが、古いと言つても固より足利頃のものである。なほ上の方の山にも同樣の稍々小さい墓穴があり、右手の樹木の茂つてゐる山の上にもあるが、此の山の上のものは、洞穴の内部のみならず、その前の方の山腹まで石棺が露出し、白い髑髏がはみ出してゐる。K博士などならば振ひつく可き處を、私などは寧ろ戰へ上つて早々遁げ出したくなつた。
[#「第一五圖 上ン土洞穴内石棺」のキャプション付きの図(fig4990_05.png)入る]
[#「第一六圖 上ン土上ンヤマ洞穴内石棺」のキャプション付きの図(fig4990_06.png)入る]
 運天へ車を急がす道すがら、呉我
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