書院の御殿も亦和風であるが、石の拱橋だけが支那風である。優雅な庭園の一端には、勸農臺と言ふ見晴しがあり、島尻の平野丘陵を望み、昔國王はこゝから人民の農業に從ふ所を見たと言ひ、又支那の册封使がこゝに來ても、沖繩の島の小さいことを隱す爲めに、海が少しも見えない樣になつてゐるとのこと。但し今は遠い丘陵の樹木がなくなつて少し位海岸の隱見してゐる處もあるが、とにかく廣い見晴しである。歸途には人家の石垣の上に生えてゐる「大谷ワタリ」を記念に取つて歸り、又高倉のあるのを見た。
 宿へ歸つて中食をして、二時出帆の船に乘らうとすると、出帆が五時に延びたとのことで、圖書館や縣廳へ挨拶に行く時間が見つかつた。いよ/\四時過ぎ臺南丸に乘込むと、丁度前内務部長が歸國せられるのを送る人々で、船も岸も見送りの男女で一ぱい。私は丁度京都へ歸られる福原君と行を同じくした上、はからず臺灣からの歸途、此の島に立寄られた農學部の沼田教授とも同船したので、神戸まで四日の船路の淋しさを忘れることが出來た。
 やがて臺南丸は埠頭を離れて港外へ搖ぎ出した。數日の間さながら古い友達の樣に親切にして下さつた西山、眞境名[#「眞境名」は底本では「眞識名」]、島袋などの諸君と、振りかざす帽子の影も互に見えなくなり、波上の岬、無線電信の柱も、やがて視界から消え去つてしまつた後、私は臺南丸の船室に這入つて、三十餘年前日清戰爭の直後、亡き父が此の船に乘つて臺灣に往來せられたことを思ひ出して心を破つたと同時に、當年の優秀船が今は琉球通ひに廻はされてゐる運命の變轉を悲しんだ。而して大島に寄港した翌日からは、晝は中城貴族院議員の氣焔に聞入り、モンスーンの大ウネリに惱まされつゝ、夜は樂しかつた沖繩の旅に夢路を馳せた。
 清河君が私の小さい娘に贈られた木の葉蝶の額、福原君からの蘇鐵の鉢をはじめ、大谷ワタリの株、パパイヤの籠等々、南島のお土産を大事に携へながら。
[#地から3字上げ](ドルメン二―九 昭和七、五―一二)



底本:「青陵隨筆」座右寶刊行會
   1947(昭和22)年11月20日発行
初出:「ドルメン 第二號〜第九號」
   1932(昭和7)年5〜12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※校正にあたって「現代紀行文學全集 第五卷 南日本篇」(修道社、昭和33年9月15日発行)所収の「沖繩の旅」を参照しました。
入力:林 幸雄
校正:鈴木厚司
2006年1月14日作成
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