のある此の絶好の菓子に何十年振に再會したことを喜んだ。
一二 眞玉橋、琉球劇
那覇への歸り道は往路とは別に、國場川口に架けられた眞玉橋に出る。これは石造のアーチが中央に三つ開いて居るが、(中央のアーチに眞玉橋、南は世持橋、北を世寄橋と名づけてゐる)。何等の裝飾もなく、却つて簡素堅實の趣を發揮し、實に沖繩第一の名橋と謂ふ可きである。橋の南の袂には「重修眞玉橋碑文」の碑が立つて居り、此の橋が二百餘年前、尚貞王の時代寶永四年から五年にかけ、全島三郡の三十五ヶ間切の人夫、八萬三千餘人を徴して作つたといふ大工事であつたことを勒してゐる。私は北岸から橋を寫生し、午後一時頃那覇の宿に歸り、一休みの暇もなく那覇小學校に出かけて、『日本文明の由來』といふ題で一時間ばかり御喋舌をしたのは辛らかつた。
[#「第一四圖 眞玉橋」のキャプション付きの図(fig4990_04.png)入る]
併し此の夜は島袋君や福原君の案内で、市中の旭劇場にかゝつてゐる琉球劇『阿摩和利』を見に行つたのは嬉しかつた。劇場は小さく粗末なものではあるが、觀衆の靜肅なのには感心したのみならず、前狂言としての現
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