た極樂寺のあつた處であると聞かされた。
 裏山の上に登りつくと、隆起珊瑚礁の草山には、野生の蘇鐵が庭木の樣にあちこちに生えてゐる。今日は生憎陰寒な天氣で風も強く、眺望には佳くない日であるが、慄へながら斷崖の上に立つと、牧湊の海岸が眼近に白く波打つてゐる。此の城址には古い瓦の破片が散在してゐるが、那覇の圖書館で見た「高麗瓦匠」云々と銘のある平瓦も此處から拾はれたものである。
 浦添《うらそへ》とは元來「浦々を支配する」の意味であつて、首都の樣であるから、首里以前舜天氏時代の都は此處にあつたと云はれてゐる。いま城址には何等見る可きものもないが、此の崖の下には有名な「ようどれ」の王陵があるのである。珊瑚礁の岩を切つて作つた階段に、足を滑らしながら降りて行くと石門があり、其の内に入ると、廣い芝生を前にした「ようどれ」の前に出る。

          六 「ようどれ」の王陵

 崖の上は先刻私達の立つてゐた浦添の城址である。蘇鐵の株が生えてゐる懸崖を直角に切つて其處に二つの墓が穿たれ、各アーチ形の入口を具へてゐるが塗込めてある。向ふの方の墓は古い英祖《えぞ》王(西紀一二六〇――九九)の陵、手前の方の四つ目窓が入口の兩側に開いてゐるのが、ずつと後の尚寧王(一五八九――一六二〇)の陵である。尚寧王の父祖は皆首里の玉陵《たまおどん》に葬つてあるが、王は島津氏の捕虜となり、日本へ拉し去られたことあるを恥ぢ、故らに獨り此の古陵の傍に奧津城を作らしめたのであると傳へられてゐる。此の墓内に於ける王一族の棺の配置などは、之を記した文書があつて、昨日圖書館で其の寫しを見せられた。
 私は此の浦添の王陵の淋しい氣分がとても氣に入つた。第一「ようどれ」と云ふ言葉は、意味が分からなくても、何となく此の寂寞たる墓域の氣分を善く現はしてゐるではないか。よう[#「よう」に傍点]とは世、どれ[#「どれ」に傍点]とは瀞《とろ》と同じく靜まりかへる義であるとは、如何にもさうあるらしく私の耳にも感じられる。英祖王陵の左右には、大きな圓筒形の高い柱が立つて居り、その上には狛犬形の像が置いてある。而して兩つの陵の間にあたる處には、小さな碑亭があつて、此の中にあの有名な「ようどれのひのもん」と題して、長い琉球文を片假名で刻した砂岩の碑が立つてゐるのである。柵をすかして見ては、其の磨滅した文字の全文を讀むことは出來ない
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