盛の神酒を頂き、國寶の鐘を拜觀した處、これは又々日本全國に遺つてゐる朝鮮鐘數十口のうちでも、第六位に古いもので、顯徳三年太歳丙辰正月廿五日の銘がある。どう云ふ徑路で朝鮮から此處へ來たのかは分らないが、とにかく古來朝鮮琉球間の交通のあつたことを證明するに足りると思ふ。この鐘と一緒にしまつてあつた陽石は、これまた頗る雄偉なもので、K博士などに見せたかつた。
 波上宮の入口に近い護國寺には、かのペルリの時こゝに居つて英國の旗をあげ、基督教の傳道に從事し、遂に琉球語の聖書を印行した、べツテルハイムの記念碑がある。これには彼と關係のあつた歐米等十ヶ國産の石板に各國名(匈、伊、希、墨、琉、墺、埃、土、支、米)を刻して、碑石に嵌してあるのも面白い意匠である。又明治初年、臺灣で遭難した琉球人の碑も其の傍に立つてゐる。此の寺の隣りには天尊廟があつて、一寸面白い天尊の像がある。紺絣の老婦人連が蹲つて拜んでゐるかと思ふと、持參の辨當を食べてゐる。それから近頃やり出した郷土藝術の琉球燒の陶器店に立寄つて、宿へ歸つたのは未だ南島の日の沒しない夕方であつた。

          五 浦添の古城址

 次の日は朝から首里の浦添の見物に出かける。自動車を走らせて、ペルリの艦隊が碇泊して居つたと云ふ牧湊の傍を通つて首里に向ふと、やがて道は蜒々と登つて丘陵は次第に高く、首里の城址が行手に青々と聳えてゐる。私は今迄首里はこんなに高い地形にあるとは想像して居なかつた。併し同時に首里の大通りを通つて、こんなに淋しい田舍村の樣な處と思ひも寄らなかつた。
 首里の城の見物は後廻しとして、我々は昔の士族屋敷らしい物靜かな小道を曲つて丘陵を降り、一路浦添の道へと急ぐ。やがて美しい赤松の林のある溪谷に沿ふて、小學校の處で車を降り、其の後ろの山にある浦添の城址に出る。學校の校舍の横を過ぎると、教室の外に「ふつうご」と書いた大きな標語が張付けてあるのが眼につく。何か「不都合」でもあるのかと島袋君に尋ねると、これは生徒に「普通語」を話さす爲めであるとのこと。定めし彼等の騷いでゐるうちに這入つても、私達には其の言葉の意味が全く解し兼ねるであらうが、薩摩芋を辨當にし裸足の生徒は、皆嬉々として活溌に遊んでゐるのは可愛らしく、教育の普及してゐる難有さを感ずる。この學校のある處が、琉球に始めて佛教を傳へた僧禪鑑が、英祖王の時建立し
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