が、私の三高時代の舊友で、琉球研究の第一人者たる伊波文學士の『古琉球』中に收められた「琉球文にて記せる最後の金石文」に其の詳しい考證が出てゐるのを讀んだ人は記憶してゐるであらう。
「りうきう國てたがすゑあんじおそひすへまさる王にせかなし」
と長々しい尚寧王の神號から始まつて、王が英祖王の陵を修築せしめ、其の曾祖父の遺骸を此處に移し、將來王自らの奧津城にもせんとし、此の碑を建つる旨を莊重な琉球文で記してある。而して最後に「このすみあさくならばほるべし、萬暦四十八年かのへさる八月吉日」とあるのも實に面白いではないか。なほ此の碑背には「極樂山之碑文」と題し、漢文を以て大體同意味の文を刻してあるが、正文の方を琉球の國文で平假名を以て誌してあるのは、却つて日本内地では殆どないことである。日本では筑前宗像神社の阿彌陀經石に、鎌倉初期に後刻した片假名交りの銘がある外、平假名文字の金石文は足利末期以後、かの切支丹の墓碑などに見る位であつて、徳川時代に至つて始めて熱田截斷橋の擬寶珠銘の如き假名の名文を出してゐるだけである。此の點琉球は早く漢文の束縛から解放せられてゐるのは嬉しい。而かも日本では漢文の碑に日本の年號を使用してゐるのに、琉球では國字の碑に支那の正朔を用ゐてゐるのは、此の國の歴史と國情を物語るものとして、却つて我々の興味をそゝるものが大きい。
「ようどれ」の王陵に此の琉球文で書かれた最後の金石文を見た私は、やがて首里の玉陵に其の最古の碑を見ることを得たのである。
七 首里の玉陵
浦添《うらそへ》から首里に引きかへして、私達は尚侯爵の別邸を訪問した。先代の侯爵には英國に留學中牛津で御目にかゝつたが、今は知る人もない此の邸に、家令百名翁に面會し、其の宏壯な書院造の應接室と、其の後ろの部屋に並べてある古い琉球の樂器(支那風の)などを拜見し、玉陵や崇元寺の拜觀のことに就いて御願をする。此の侯爵邸はもと中城御殿《なかぐすくうどん》と稱し、世子の御殿であつて、安政四年の新築と云ふが、便所の窓に半透明の貝殼を張つて、硝子の代りにしてゐるのが特に面白いと思つた。
[#「第一一圖 玉陵」のキャプション付きの図(fig4990_01.png)入る]
さて玉陵《たまうどん》は首里の城の南方、天界寺趾の前にある尚王家歴代の陵廟である。弘治十四年(文龜元年、西紀一五〇一)
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