尚眞王が父王尚圓王の遺骸を見上森から此地に改葬し、爾後王家の陵として漸次規模を擴張し、現今の如くなつたのである。今は漫※[#「さんずい+患」、第4水準2−79−16]して殆ど讀み難くはなつてゐるが、陵前(左方)に立つてゐる弘仁十四年九月の「たまおどんのひのもん」には、「首里おぎやかもいがふしまあかとだる」と、冒頭に尚眞王の一族九人の名を上段に記し、下段には「しよりの御み事い上九人この御すゑは千年萬年にいたるまでこのところにおさまるべし、もしのちにあらそふ人あらばこのすみ見るべし、このかきつけそむく人あらばてんにあをぎちにふしてたるべし」とあり、實に琉球文の金石中最古のものと稱せられてゐる。
 石門のうち珊瑚礁の細片を敷きつめた廣庭の後ろに、勾欄を前にした三棟の石築墓室が半ば自然の岩壁に據つて造られてゐるのが玉陵の本體である。その黒ずんだ石の色の外には、點景の樹木の緑さへも殆ど見られない單調の色彩と、其の簡單なる直線の配合、伊東博士が此の陵を評して「鬼氣身に沁みる閑寂の裡に、一種の神祕的なる靈感が、ひし/\と人に迫るが如き氣分である。建築として何の奇もなく巧もなく、而かも人に甚深の感動を與ふる處が、その崇高偉大なる所以であり、陵墓建築として洵に理想に近いものである」と云つて居られるは、實に私の言はうとする所を道破せられて、一語の之に加ふ可きものがない。伊東先生は如何なる時に此の陵を訪ねられたか知らないが、私は丁度どんよりとした時雨空に膚寒い風に吹かれながら、此の陵前に立つて特に此の感をば深くしたことである。

          八 首里の城内

 支那式の守禮門を通つて東に進むと、左手に唐破風を頂いた石門がある。これが即ち園比屋武嶽《そのひやんだけ》の杜の拜處の門である。これは四百餘年前の建築であることは、門※[#「木+眉」、第3水準1−85−86]の陶製の扁額に「首里の王おきやかもひかなし御代にたて申候、正徳十四年己[#「己」は底本では「已」]卯十一月二十八日」とあるのを以て知ることが出來る。形は小さいが恰好は善く、而かも堅實な感を與へる和漢折衷の面白い樣式が氣に入つた。之と同じ形の門が、私は見なかつたが首里の東北|冕《べん》ゲ嶽にもあるさうである。此等は何れも山嶽や森林に神靈を拜する古代信仰の標幟である。
 更に進んで歡會門から龍樋の清泉を掬し、瑞泉門を潜つて石
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