階を登つて行くと、如何にも自分ながら支那の文人畫中の人物にでもなつた感がするが、さて本丸の頂上の廣場に出で、首里城の正殿|百浦添《むんだすい》の大厦の忽然として聳えてゐるのを仰ぐと、恰も修繕前の奈良の大佛殿の前に立つた時の樣な思がする。
この正殿は察度王の時に創立し、今の建物は享保十四年の重修に係るもので、總高さ五十四尺、内部は三層であるが、外觀は重層。大きな唐破風の向拜を前にし、巍然として巨人の如く立つてゐる姿は、萬事規模の小さい琉球には珍らしい堂々たるものであつて、如何にも桃山時代から徳川初期の雄偉な氣分を現はし、隨處に琉球建築の特徴を示してゐる。併し今は大破して大軒も傾き將に覆らんとする危險状態になつてゐる。それで先年保存の道がないと云ふので、危く取り壞されようとしたのを、伊東博士の熱心なる努力によつて沖繩神社の拜殿として蘇生し、特別保護建造物として、今や大修繕の途にあるのは喜ばしい極みである。たゞ恐れるのは遲々たる修理工事の間に、あの危なかしい大軒が沖繩名物の颱風の爲めに、崩れ落ちはしないかとの心配である。
正殿の前には南殿と北殿の建物がある。北の方は議政殿と稱し、支那の册封使の歡待所で、支那風の設備を有してゐるのに反し、南殿は日本風の建物で、薩州の使者を接待した處であると云ふのは、如何にも琉球國の歴史を物語つてゐる。この南殿に接して、もと藩王の住居であつた邸宅の部分が殘つて居り、今は女子工藝學校になつて若い娘さん達が出入してゐるのは、却つて保存の爲めには善いかも知れない。こゝにまた物見櫓の跡が殘つてゐる。
九 圓覺寺と崇元寺
次に見た首里城の傍にある圓覺寺は、此の國に珍らしい七堂伽藍の揃つてゐる佛寺であるが規模は至つて小さい。圓鑑池の中島にある辯才天堂は遠望したゞけで、たゞ此のあたりの美くしい樹の茂みと、龍潭池の眺めを賞して那覇へ歸ることにしたが、途中琉球の神社建築として面白い眞和志村の安里にある八幡宮と沖宮とを訪ね、その調子の變つた蟇股や、柱にかけた假面の彫刻を見、それから崇元寺に琉球王歴代の位牌殿を見たが、この寺の門は首里から那覇への大道に接して立ち、三箇のアーチを開いた何の裝飾もない石造の直方體であるが、それが如何にも近頃の混凝土建築と同巧であるのが嬉しい、伊東博士は之を激賞して
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