手法は簡單であるが、其の中央部と左右翼の取り合せの自然なる、其の相互の廣袤幅員の權衡を得たる、その全部の輪廓の簡明にして要を得たる、その線の少くして一の無駄のなき、數へ來れば限りなき美點が現はれる。一見素朴なるが如くにして、凝視すれば益々豐富である。一瞥粗野なるが如くにして觀察すれは高雅である。極めて無造作なるに似て、實は苦心慘憺の作である。甚だ淺薄なるに似て實に重厚深刻の作である」云々。
[#ここで字下げ終わり]
と百パーセントの讃辭を呈して、其の獨創清新の意匠を賞嘆せられてゐるのには、私も全く先生の見識に敬服してしまつたことである。なほ寺内の下馬碑に「あんし《按司》も|けす《下司》も|くま《此處》から|うま《馬》からおれるべし」と琉文を表に記し、裏に「但官員人寺至此下馬」と漢文に刻してあると、伊東博士が記されてゐるが、それは遂に見落した。(同博士「木片集」)
[#「第一二圖 崇元寺右門」のキャプション付きの図(fig4990_02.png)入る]
さて那覇へ歸つて遲い中食を認め休息の暇もなく、女學校で開かれる南島談話會に臨み、それから辻の某旗亭で催された歡迎會に赴いたが、私達が此處で沖繩美人の舞踊に打興じてゐる眞最中、飛電は帝都に於ける警視廳前の不祥事件に犬養内閣の辭表捧呈を報じ、縣の役人方は忙しく座をたゝれる。併し私は此處で十餘年前英國で相知つた神山君に邂逅する喜をも得た。
一〇 糸滿の漁村
第三日目には那覇から南方糸滿と南山城を見に行くことにした。那覇町を出て低温な甘蔗畠を過ぎ三里ばかり、糸滿の町の入口に白銀堂といふ祠が道ばたの洞穴の中にある。今は全く近代化せられて一向面白味はないが、例の通り紺絣りの女達が蹲つて切りに御祈をしてゐる。こゝは昔一人の薩摩武士が、貸金の事から美殿と云ふ男を殺さうとしたが、「意地の出《ん》ぢらー手引き、手の出《ん》ぢらー意地引き」といふ勘忍第一の諺を説かれて之を助けたが、其の後彼は歸國して、男裝せる女が嫁の貞操を保護せんが爲め、彼の妻と同衾してゐるのを見て殺害せんとしたが、此の諺を思ひ起して罪惡から免れたと云ふ傳説のある堂である。
[#「第一三圖 糸滿の漁船」のキャプション付きの図(fig4990_03.png)入る]
糸滿と云ふ處は沖繩でも人種が違ひ、白人の血が交つてゐるとか、イートマンと云ふ外人の
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