名から起つた地名であるとかと云はれてゐるが、私の一見した處ではそんな事はないらしい。漁村のことゝて男は海上に魚取りに出で、女は之を頭上にのせて那覇へ賣りに行きなどして、女も非常に活動する處から、體格も自然に佳いといふ位で、また店に坐つてゐる主婦などに肥え太つた女が多いのは、運動と食物の關係であるかも知れない。魚市場で商賣してゐるのも皆な女であつて、亭主が漁して來た魚を女房や娘が値切りこぎつて買ひ、之に自分が利得を取つて賣り、家族の面々財産を別にしてゐるといふ、日本には珍らしい個人主義的財産制度を持つてゐるので、先年某博士が調べに來られ、それ以來有名になつてゐるとのことである。
併し勿論こんな財産制度の事などはさつきの人種の問題とは違ひ、往來を歩きながら糸滿人の顏をながめた丈けでは分かるものではないので、皆な博識な島袋君の御話の受賣りである。そこで私達は海岸へ行つて、濱邊に引上げてあるウツロ舟を見たり、血なまぐさい魚市場の内を歩いて魚類を見たりしてから、近傍の漁師の家に這入つて、刳木の水アカすくひを買つたりしてから、少し山の手にあるノロ(巫女)さんの家を訪ねることにした。これは沖繩へ來てから始めてのことであつたが、生憎ノロさん自身には病氣で會へず、其の嫁の人から勾玉を出して見せてもらつた。但しこれは極く新しい玻璃製のもので失望したが、祭壇の具合などに興味を感じながらラツキヨ漬を御馳走になつて暇を告げ、町役場の前で車を停めると、親切な役場の方が前町長玉城五郎氏の書かれた案内記などを贈られたので、有難く拜見し、御蔭で此の町から千二百人ばかりも多數の移民が外國に出かけ、昭和四年にはその送金高十一萬圓に上るといふことや、又々此の町には、税金年額一錢を納めるプロレタリヤの何人かあることをも知つて、大に糸滿通となつた次第である。
一一 南山城、高嶺の口
糸滿瞥見をすましてから、町の東の丘にある南山城址へ行く。これは中山の尚巴思に亡ぼされた他魯毎が居つた居城で、承察度が南山王を稱してから四代百四年、遂に三山統一となつたのは十五世紀の初葉のことである。大した城廓の構もなく、今は城址に小學校と小さい祠が立つてゐるだけ。たゞ近く糸滿の海を眺める景色を賞す可きである。オガンの前に小さい木の臼と杵とが供へてあるのを土俗の資料にと無斷で頂戴して行く。
丘を下つて大
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