である。今泊の村から丘陵を登つて、昔家屋敷のあつたアタイ原と言ふ處を通ると、兩側には蘇鐵などの庭木が昔ながらの庭園の跡を偲ばせる。山の上本丸の址には今歸仁城の碑があり、小さな神殿もあるが、一體に石垣がよく殘つて居り、物見櫓の跡もある。規模の大なることも遙に中城などを凌いでゐる。殊に東は懸崖數十丈、その下に淙々たる溪川が流れ、此の伊平屋島[#「伊平屋島」は底本では「伊乎屋島」]を指呼の間に眺める景色は譬へ難い美しさである。山上に愛創石[#「愛創石」は「受劍石」の誤りか]と言ふのがあつて、此の北山陷落の際、勇將攀安知が力盡き自盡せんとする前、日頃禮拜して居た靈石の驗なきを憤慨して、刀を以て兩斷したものであると言ふ凄じい石である。而して其の刀は今なほ尚侯爵家に傳はつてゐると聞いた。
山を下つた所に、丁度島袋君の岳父の家があるので、一同其處に御厄介になつて中食を使ひ、又々島袋君の手廻しで、今歸仁のノロクモイの傳へてゐる勾玉(一ヶ)と、今泊の阿應理惠按司の勾玉(廿一箇)や、玉草履を持參してもらつて見ることを得たのは何よりの幸であつた。殊に後者には呉形勾玉二箇、出雲石のもの一箇、大抵はT字頭を有し、其の石質の白味のある硬玉であることから、形状製作に至るまで、いづれも朝鮮新羅の勾玉に酷似してゐると見るは、琉球勾玉の本質、延いては勾玉全體の考察に重大なる寄與をなす事實であると思はれた。何分にも時間がなく、前から頼んで置いた恩納村の人々は、定めし踊りを見せようと待つてゐられることゝ氣がせかれるので、詳しい調査は、一度島田君にでも來てもらつてすることにして、二時頃名護に引きかへす。
[#「第一七圖 國頭郡今歸仁村今泊阿應理惠按司勾玉」のキャプション付きの図(fig4990_07.png)入る]
一九 恩納の臼太鼓踊
恩納《おんな》村の谷茶《たんちや》では、先年那覇へ其の古い郷土の踊を出したことがあるので、あれを名護から歸りに見ては何うかとの島袋君の話に、それは何よりも有難い仕合と御願ひをした處、谷茶の村人は私の爲めに村の婦人多勢を繰出し、二日前から練習をしてゐるとの事を往路に聞かされてから、これは大變な迷惑をかけることになつたと後悔しても致し方がない。折角の事故せめて少しでも長い時間拜見しようと、今歸仁から車を飛ばせて、名護に小休みの暇もなく、谷茶の村に著い
前へ
次へ
全22ページ中17ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
浜田 青陵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング