朝鮮へ行つた時には、上水道のない土地では一切生ものを食べないことにしてゐたので、鎭南浦の宿屋で其の日に捕りたてのマグロの刺身を出されても、恐れをなして食はなかつた處、同行の小場君に「口の中で溶ける樣なマグロを何故食べぬか」と見せつけられ、唾液を呑んだ時の事である。今でもあの時食べれば宜かつたにと殘念に思ふ。
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 生魚《ローフイシユ》を食はぬ西洋人も、牡蠣だけは一向平氣に食ふことは日本人以上である。十年程前巴里へ行つた時、久々に今ま波蘭の公使をしてゐられる伊藤述史君に會つた。「今日は一つ自分の家庭でゆつくり夕食をやらう」と、電話をかけて奧樣に都合を聞かれると、お客樣へ出す食物の用意は一向ないとの事、併し「宜しい」と、伊藤君は私と一緒に其の家に歸る途中で牡蠣を買はれて行つたが、さて食卓には二人前の魚しかなく、私に牡蠣を出されたが、私は恐ろしくて生牡蠣を食べる勇氣はなく、降參して伊藤君の魚を頂戴したので、伊藤君は生牡蠣だけで食事を終られたのは、實に氣の毒な思ひをしたことであつた。併し生牡蠣の料理が出る毎に、伊藤君が舊友を歡迎する爲めに、大使館から歸り途に牡蠣を買つて歸られ、それ計りで夕食を濟まされた厚意を思ひ出し、哺飯の故事にも似た感謝の念を新たにする次第である。
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 伊太利は地中海の魚が豐富なので、隨分食卓に魚が出て來る。羅馬の「カステル・チユザリ」と言ふ料理屋では「フリツト・ミスト」と言つて、小さな魚、飯章魚などの天麩羅も食はすが、安下宿屋などでは金曜日の精進日の外には餘り魚を食はさない(西洋では魚は精進物の部類に這入つてゐる)。羅馬の或る下宿に居る頃、日本では一番何を食ふかと聞かれて、魚を食ふと答へた後間もなく、或る日の中食に魚が出た。併し日本の魚の樣に新しくなく、まさかプーンと來る程でもないが、肉が柔かく一寸閉口してフオークをおいてしまつた。その時私の向側に坐つてゐた宿の主婦の妹さんは、此の魚は新しくないので私が食べないのであると感づいたと見え、女中に「濱田さんは魚を召上らないから肉を持つて來なさい」と命令した。併しながら、同卓二十餘人の客人は已に皆な之を食べてしまつてゐる、私ばかり何うして肉を食へよう。私は「いや今日は少し腹具合が惡いので、洵に失禮をします」と辯解して其の後の皿は食べず、早く食卓を離れて直ちに街
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