おちる
ゆっくりと ゆっくりと
庇《ひさし》にかかったビラは箒《ほうき》をもった手が現れて
丁寧にはき落し
一枚一枚 生きもののように
声のない叫びのように
ひらり ひらりと
まいおちる
鳩を放ち鐘を鳴らして
市長が平和メッセージを風に流した平和祭は
線香花火のように踏み消され
講演会、
音楽会、
ユネスコ集会、
すべての集りが禁止され
武装と私服の警官に占領されたヒロシマ、
ロケット砲の爆煙が
映画館のスクリーンから立ちのぼり
裏町から 子供もまじえた原爆反対署名の
呼び声が反射する
一九五〇年八月六日の広島の空を
市民の不安に光りを撒き
墓地の沈黙に影を映しながら、
平和を愛するあなたの方へ
平和をねがうわたしの方へ
警官をかけよらせながら、
ビラは降る
ビラはふる
[#改ページ]
夜
視野を包囲し
視神経を疼《うず》かせ
粟粒《ぞくりゅう》するひろしまの灯
盛りあがった傷痕《きずあと》の
ケロイドのつるつるの皮膚にひきつって
濡れた軌条がぬたくり
臓物の臭う泥道に
焼け焦げた並木の樹幹からぶよぶよの芽が吹き
霖雨《りんう》の底で
女の瞳は莨《たばこ》の火よりもあかく
太股に崩れる痣《あざ》をかくさぬ
ひろしまよ
原爆が不毛の隆起を遺《のこ》すおまえの夜
女は孕むことを忘れ
おれの精虫は尻尾を喪《うしな》い
ひろしまの中の煌《きら》めく租借地
比治山公園の樹影にみごもる
原爆傷害調査委員会のアーチの灯が
離胎《りたい》する高級車のテールライトに
ニューメキシコ沙漠の土民音楽がにじむ
夜霧よ
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(彼方河岸の窓の額縁《がくぶち》に
のびあがって 花片を脱ぎ
しべをむしり
猫族のおんなは
ここでも夜のなりわいに入る)
[#ここで字下げ終わり]
眼帯をかけた列車を憩わせる駅の屋上で
移り気な電光ニュースは
今宵も盲目文字を綴《つづ》り
第二、第三、第百番めの原爆実験をしらせる
どこからかぽたぽたと血をしたたらせながら
酔っぱらいがよろめき降る
河岸の暗がり
揺れきしむボート
その中から
つと身を起すひょろ長い兵士
屑鉄|漁《あさ》りの足跡をかくし
夜汐は海からしのび寄せる
蛾《が》のように黝《うすぐろ》く
羽ばたきだけで空をよぎるものもあって
夜より明け方へ
あけがたより夜の闇へ
遠く吊された灯
墜ちようとしてひっかかった灯
おびえつつ忘れようとしている灯
ぶちまけられた泡沫の灯
慄《ふる》える灯 瀕死の灯
一刻ずつ一刻ずつ
血漿《けっしょう》を曳き這いずり
いまもあの日から遠ざかりながら
何処ともなくいざり寄るひろしまの灯
歴史の闇に
しずかに低く
ひろしまの灯は溢れ
[#改ページ]
巷にて
おお そのもの
遠ざかる駅の巡査を
車窓に罵りあうブローカー女たちの怒り
くらがりにかたまって
ことさらに嬌声《きょうせい》をあげるしろい女らの笑い
傷口をおさえもせず血をしたたらせ
よろめいていった酔っぱらいのかなしみ
それらの奥に
それらのおくに
ひとつき刺したら
どっと噴き出そうなそのもの!
[#改ページ]
ある婦人へ
裂けた腹をそらざまに
虚空《こくう》を踏む挽馬《ばんば》の幻影が
水飼い場の石畳をうろつく
輜重隊《しちょうたい》あとのバラック街
溝露路の奥にあなたはかくれ住み
あの夏以来一年ばかり
雨の日の傘にかくれる
病院通い
透明なB29[#「29」は縦中横]の影が
いきなり顔に墜《お》ちかかった
閃光の傷痕は
瞼から鼻へ塊りついて
あなたは
死ぬまで人にあわぬという
崩れる家にもぎとられた
片腕で編む
生活の毛糸は
どのような血のりを
その掌に曳くのか
風車がゆるやかに廻り
菜園に子供があそぶこの静かな町
いく度か引返し
今日こそあなたを尋ねゆく
この焼跡の道
爬虫《はちゅう》のような隆起と
柔毛《やわげ》一本|生《は》えぬてらてらの皮膚が
うすあかい夕日の中で
わたくしの唇に肉親の骨の味を呼びかえし
暑さ寒さに疼《うず》きやまぬその傷跡から
臭わしい膿汁《のうじゅう》をしたたらせる
固いかさぶたのかげで
焼きつくされた娘心を凝《こご》らせるあなたに対《むか》い
わたしは語ろう
その底から滲染《し》み出る狂おしい希《ねが》いが
すべての人に灼きつけられる炎の力を
その千の似姿が
世界の闇を喰いつくす闘いを
あたらしくかぶさる爆音のもと
わたしは語ろう
わたしの怒り
あなたの呪いが
もっとも美しい表情となる時を!
[#改ページ]
景観
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
ぼくらはいつも燃える景観《けいかん》をもつ
火環列島の砂洲《デルタ》の上の都市
ビルディングの窓は色のない炎を噴き
ゴーストップが火に飾られた流亡《るぼう》の民を堰止《せきと》めては放出する
煙突の火の中に崩れ 火焔に隠れる駅の大時計
突端の防波堤の環に 火を積んで出入りする船 急に吐く音のない 炎の汽笛
列車が一散に曳きずってゆくものも カバーをかけた火の包茎《ほうけい》
女はまたぐらに火の膿《うみ》を溜め 異人が立止ってライターの火をふり撒《ま》くと
われがちにひろう黒服の乞食ども
ああ あそこでモクひろいのつかんだ煙草はまだ火をつけている
ぼくらはいつも炎の景観に棲《す》む
この炎は消えることがない
この炎は熄《や》むことがない
そしてぼくらも もう炎でないと誰がいえよう
夜の満都の灯 明滅するネオンの燠《おき》のうえ トンネルのような闇空に
かたまってゆらめく炎の気配 犇《ひし》めく異形《いぎょう》の兄弟
ああ足だけの足 手だけの手 それぞれに炎がなめずる傷口をあけ
最後に脳が亀裂し 銀河は燃え
崩れる
炎の薔薇《ばら》 あおい火粉
疾風の渦巻き
一せいに声をあげる闇
怨恨 悔 憤怒 呪詛 憎悪 哀願 号泣
すべての呻きが地を搏《う》ってゆらめきあがる空
ぼくらのなかのぼくら もう一人のぼく 焼け爛《ただ》れたぼくの体臭
きみのめくれた皮膚 妻の禿頭 子の斑点 おお生きている原子族
人間ならぬ人間
ぼくらは大洋の涯《はて》 環礁《かんしょう》での実験にも飛び上がる
造られる爆弾はひとつ宛《ずつ》 黒い落下傘でぼくらの坩堝《るつぼ》に吊りさげられる
舌をもたぬ炎の踊り
肺のない舌のよじれ
歯が唇に突き刺り 唇が火の液体を噴き
声のない炎がつぎつぎと世界に拡がる
ロンドンの中に燃えさかるヒロシマ
ニューヨークの中に爆発するヒロシマ
モスクワの中に透きとおって灼熱するヒロシマ
世界に瀰漫《びまん》する声のない踊り 姿態の憤怒
ぼくらはもうぼくら自体 景観を焼きつくす炎
森林のように 火泥《かでい》のように
地球を蔽いつくす炎だ 熱だ
そして更に煉られる原子爆殺のたくらみを
圧殺する火塊《かかい》だ 狂気だ
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
呼びかけ
いまでもおそくはない
あなたのほんとうの力をふるい起すのはおそくはない
あの日、網膜を灼く閃光につらぬかれた心の傷手から
したたりやまぬ涙をあなたがもつなら
いまもその裂目から どくどくと戦争を呪う血膿《ちうみ》をしたたらせる
ひろしまの体臭をあなたがもつなら
焔の迫ったおも屋の下から
両手を出してもがく妹を捨て
焦げた衣服のきれはしで恥部をおおうこともなく
赤むけの両腕をむねにたらし
火をふくんだ裸足でよろよろと
照り返す瓦礫《がれき》の沙漠を
なぐさめられることのない旅にさまよい出た
ほんとうのあなたが
その異形《いぎょう》の腕をたかくさしのべ
おなじ多くの腕とともに
また墜ちかかろうとする
呪いの太陽を支えるのは
いまからでもおそくはない
戦争を厭《いと》いながらたたずむ
すべての優しい人々の涙腺《るいせん》を
死の烙印《らくいん》をせおうあなたの背中で塞《ふさ》ぎ
おずおずとたれたその手を
あなたの赤むけの両掌《りょうて》で
しっかりと握りあわせるのは
さあ
いまでもおそくはない
[#改ページ]
その日はいつか
1
熱い瓦礫と、崩れたビルに
埋められた道が三方から集り
銅線のもつれる黒焦の電車をころがして交叉する
広島の中心、ここ紙屋町広場の一隅に
かたづけ残されころがった 君よ、
音といっては一かけらの瓦にまでひび入るような暑さの気配
動くものといっては眼のくらむ八月空に
かすれてあがる煙
あとは脳裏を灼いてすべて死滅したような虚しさのなか
君は 少女らしく腰をくの字にまげ
小鳥のように両手で大地にしがみつき
半ば伏さって死んでいる、
裸になった赤むけの屍体ばかりだったのに
どうしたわけか君だけは衣服をつけ
靴も片方はいている、
少し煤《すす》けた片頬に髪もふさふさして
爛《ただ》れたあとも血のいろも見えぬが
スカート風のもんぺのうしろだけが
すっぽり焼けぬけ
尻がまるく現れ
死のくるしみが押し出した少しの便が
ひからびてついていて
影一つないまひるの日ざしが照し出している、
2
君のうちは宇品町
日清、日露の戦争以来
いつも日本の青年が、銃をもたされ
引き裂かれた愛の涙を酒と一緒に枕にこぼし
船倉《せんそう》に積みこまれ死ににいった広島の港町、
どぶのにおいのたちこめる
ごみごみ露路の奥の方で
母のないあと鋳物《いもの》職人の父さんと、幼い弟妹たちの母がわり
ひねこびた植物のようにほっそり育ち
やっと娘になってきたが
戦争が負けに近づいて
まい晩日本の町々が藁束《わらたば》のように焼き払われるそのなかで
なぜか広島だけ焼かれない、
不安と噂の日々の生活、
住みなれた家は強制疎開の綱でひき倒され
東の町に小屋借りをして一家四人、
穴に埋めた大豆を噛り、
鉄道草を粥《かゆ》に炊《た》き、
水攻めの噂におびえる大人に混って
竹筒の救命具を家族の数だけ争ったり
空襲の夜に手をつないで逃げ出し
橋をかためる自警団に突き倒されたり
右往左往のくらしの日々、
狂いまわる戦争の力から
必死になって神経痛もちの父を助け、幼い弟妹を守ろうとした
少女のその手、そのからだ、
3
そして近づく八月六日、
君は知ってはいなかった、
日本の軍隊は武器もなく南の島や密林に
飢えと病気でちりぢりとなり
石油を失った艦船は島蔭にかくれて動けず
国民全部は炎の雨を浴びほうだい
ファシストたちは戦争をやめる術《すべ》さえ知らぬ、
君は知ってはいなかった
ナチを破ったソヴェートの力が
不可侵条約不延期のしらせをもって
帝国日本の前に立ち塞がったとき
もう日本の降伏は時間の問題にすぎないと
世界のまなこに映っていたのを、
君は知ってはいなかった、
ハーケンクロイツの旗が折れ
ベルリンに赤旗が早くもあがったため
三ヵ月後ときめられたソヴェートの参戦日が
歴史の空に大きくはためきかけたのを
[#ここから1字下げ]
〈原爆投下は急がれる
その日までに自分の手で日本を叩きつぶす必要を感じる
暗くみにくい意志のもと
その投下は急がれる
七月十六日、ニューメキシコでの実験より
ソヴェートの参戦日までに
時間はあまりに僅かしかない!〉
[#ここで字下げ終わり]
4
あのまえの晩 五日の深夜、広島を焼き払うと
空より撒かれた確かな噂で
周囲の山や西瓜畑にのがれ夜明しをした市民は
吠えつづけるサイレンに脅かされながらも
無事な明け方にほっとして家に引返し
のぞみのない今日の仕事へ出かけようと町に道路に溢れはじめた
その朝 八月六日、その時間
君は工場へ父を送り出し
中学に入ったばかりの弟に弁当をつめてやり
それから小さい妹を
いつものように離れた町の親戚へ遊びにやって
がたつく家の戸に鍵をかけ
動員の自分の職場へ
今日も慣れぬ仕事に叱られに出た、
君は黙って途中まで足早に来た、
何かの気配でうつ伏せたとき
閃光は真うしろから君を搏《う》ち
埃煙《あいえん》がおさまり意識が返ると
それでも工場へ辿りつこうと
逃げてくる人々の波を潜り此処まで来て仆《たお》れた
この出来
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