腕が太股なのか太ももが腹なのか、焼けちぢれたひとにぎりの毛髪と、腋毛と、幼い恥毛との隈が、入り乱れた四肢とからだの歪《ゆが》んだ線のくぼみに動かぬ陰影をよどませ、鈍くしろい眼だけがそのよどみに細くとろけ残る。
 ところどころに娘をみつけた父母が跼《かが》んでなにかを飲ませてい、枕もとの金《かな》ダライに梅干をうかべたうすい粥が、蠅のたまり場となっている。
 飛行機に似た爆音がするとギョッと身をよじるみなの気配のなかに動かぬ影となってゆくものがまたもふえ、その影のそばでみつけるK夫人の眼。

 三日め
 K夫人の容態、呼吸三〇、脈搏一〇〇、火傷部位、顔面半ば、背面全面、腰少し、両踵、発熱あり、食慾皆無、みんなの狂声を黙って視《み》ていた午前中のしろい眼に熱気が浮いて、糞尿桶にまたがりすがる手の慄《ふる》え。水のまして、お茶のまして、胡瓜もみがたべたい、とゆうがた錯乱してゆくことば。
 硫黄島に死んだ夫の記憶は腕から、近所に預けて勤労奉仕に出てきた幼児の姿は眼の中からくずれ落ちて、爛《ただ》れた肉体からはずれてゆく本能の悶《もだ》え。

 四日め
 しろく烈しい水様下痢。まつげの焦げた眼がつりあがり、もう微笑の影も走ることなく、火傷部のすべての化膿。火傷には油を、下痢にはげんのしょうこをだけ。そしてやがて下痢に血がまじりはじめ、紫の、紅の、こまかい斑点がのこった皮膚に現れはじめ、つのる嘔吐《おうと》の呻きのあいまに、この夕べひそひそとアッツ島奪還の噂がつたえられる。

 五日め
 手をやるだけでぬけ落ちる髪。化膿部に蛆《うじ》がかたまり、掘るとぼろぼろ落ち、床に散ってまた膿に這いよる。
 足のふみ場もなかった倉庫は、のこる者だけでがらんとし、あちらの隅、こちらの陰にむくみきった絶望の人と、二、三人のみとりてが暗い顔で蠢《うごめ》き、傷にたかる蠅を追う。高窓からの陽が、しみのついた床を移動すると、早くから夕闇がしのび、ローソクの灯をたよりに次の収容所へ肉親をたずねて去る人たちを、床にころがった面《めん》のような表情が見おくっている。

 六日め
 むこうの柱のかげで全身の繃帯から眼だけ出している若い工員が、ほそぼそと「君が代」をうたう。
[#ここから2字下げ、折り返して1字下げ]
「敵のB29[#「29」は縦中横]が何だ、われに零戦、はやてがある――敵はつけあがっている、もうすこし、みんなもうすこしの辛棒だ――」
[#ここで字下げ終わり]
 と絶えだえの熱い息。

 しっかりしなさい、眠んなさい、小母さんと呼んでくれたらすぐ来てあげるから、と隣りの頭を布で巻いた片眼の女がいざりよって声をかける。
「小母さん? おばさんじゃない、お母さん、おかあさんだ!」
 腕は動かず、脂汗のにじむ赧黒《あかぐろ》い頬骨をじりじりかたむけ、ぎらつく双眼から涙が二筋、繃帯のしたにながれこむ。

 七日め
 空虚な倉庫のうす闇、あちらの隅に終日すすり泣く人影と、この柱のかげに石のように黙って、ときどき胸を弓なりに喘《あえ》がせる最後の負傷者と。

 八日め
 がらんどうになった倉庫。歪んだ鉄格子の空に、きょうも外の空地に積みあげた死屍《しし》からの煙があがる。
柱の蔭から、ふと水筒をふる手があって、
無数の眼玉がおびえて重なる暗い壁。
K夫人も死んだ。
――収容者なし、死亡者誰々――
門前に貼り出された紙片に墨汁が乾き
むしりとられた蓮の花片が、敷石のうえに白く散っている。
[#改ページ]

  としとったお母さん

逝《い》ってはいけない
としとったお母さん
このままいってはいけない

風にぎいぎいゆれる母子寮のかたすみ
四畳半のがらんどうの部屋
みかん箱の仏壇のまえ
たるんだ皮と筋だけの体をよこたえ
おもすぎるせんべい布団のなかで
終日なにか
呟《つぶや》いているお母さん

うそ寒い日が
西の方、己斐《こい》の山からやって来て
窓硝子にたまったくれがたの埃をうかし
あなたのこめかみの
しろい髪毛をかすかに光らせる

この冬近いあかるみのなか
あなたはまた
かわいい息子と嫁と
孫との乾いた面輪《おもわ》をこちらに向かせ
話しつづけているのではないだろうか
仏壇のいろあせた写真が
かすかにひわって
ほほえんで

きのう会社のひとが
ちょうどあなたの
息子の席があったあたりから
金冠のついた前歯を掘り出したと
もって来た
お嫁さんと坊やとは
なんでも土橋のあたりで
隣組の人たちとみんな全身やけどして
ちかくの天満川《てんまがわ》へ這い降り
つぎつぎ水に流されてしまったそうな
あの照りつけるまいにちを
杖ついたあなたの手をひき
さがし歩いた影のないひろしま
瓦の山をこえ崩れた橋をつたい
西から東、南から北
死人を集めていたという噂の四つ角から
町はずれの寺や学校
ちいさな島の収容所まで
半ばやぶれた負傷者名簿をめくり
呻きつづけるひとたちのあいだを
のぞいてたずね廻り
ほんに七日め
ふときいた山奥の村の病院へむけて
また焼跡をよこぎっていたとき
いままで
頑固なほど気丈だったあなたが
根もとだけになった電柱が
ぶすぶすくすぶっているそばで
急にしゃがみこんだまま
「ああもうええ
もうたくさんじゃ
どうしてわしらあこのような
つらいめにあわにゃぁならんのか」
おいおい声をあげて
泣きだし
灰のなかに傘が倒れて
ちいさな埃がたって
ばかみたいな青い空に
なんにも
なんにもなく
ひと筋しろい煙だけが
ながながとあがっていたが……

若いとき亭主に死なれ
さいほう、洗いはり
よなきうどん屋までして育てたひとり息子
大学を出て胸の病気の五、六年
やっとなおって嫁をもらい
孫をつくって半年め
八月六日のあの朝に
いつものように笑って出かけ
嫁は孫をおんぶして
疎開作業につれ出され
そのまんま
かえってこない
あなたひとりを家にのこして
かえって来なかった三人

ああお母さん
としとったお母さん
このまま逝ってはいけない
焼跡をさがし歩いた疲れからか
のこった毒気にあてられたのか
だるがって
やがて寝ついて
いまはじぶんの呟くことばも
はっきり分らぬお母さん

かなしみならぬあなたの悲しみ
うらみともないあなたの恨みは
あの戦争でみよりをなくした
みんなの人の思いとつながり
二度とこんな目を
人の世におこさせぬちからとなるんだ

その呟き
その涙のあとを
ひからびた肋《あばら》にだけつづりながら
このまま逝ってしまってはいけない
いってしまっては
いけない
[#改ページ]

  炎の季節

FLASH!
全市が
焚《た》きこめられた
マグネシュームのなかで
影絵のように崩れる。

音ではない
それは
フワリと
投げ出された意識。
埋められる瞬間の
とおい
おのれ、

千万の硝子の飛散。
鉛より重い古びた梁木《はりぎ》
どたりと壁土が
とどめをさし、
外は
奇妙な灰色の
ぶざまにへしゃげた屋根の
電線の網の
人くさくて
人の絶えた
何里四方かの
死寂。

急に立ち上った焦茶《こげちゃ》の山脈の
すり鉢の底に
つぶれた広島から
なんという奔騰《ほんとう》!
もりあがり逆巻きゆれかえしおし上り
雲・
雲・
雲・
赤・橙・紫・
はるか天頂で真紅の噴火。
摶《う》ちあい、
爆発し、
渦巻きあがる煙の地殻の裂目から
気圏へ沸騰《ふっとう》する
大気!
はじめて地をつたう
ひびき、呻《うめ》き、轟炸音《ごうさくおん》!

ウラニュームU二三五号は
予定されたヒロシマの
上空五〇〇米に
人工の太陽を出現させ、
午前八時十五分は
たしかに
市民を
中心街の路上に密集せしめ。

ひろしまは
もう見えない。
陰毛のような煙の底、
二重にも三重にもふくれたりしぼんだり
明滅する太陽のもと、
焔の舌が這い廻り、
にんげんの
めくられた皮膚をなめ
旋風にはためく
黒い驟雨《しゅうう》が
同族をよぶ唇を塞ぐ
列、
列、
不思議な虹をくぐって続く
幽霊の行列、
巣をこわされた蟻のように
市外へのがれる
道を埋め
両手をまえに垂れ
のろのろと
ひとしきり
ひとしきり
かつて人間だった
生きものの行列。
空も地も失われた
熱風と異臭の空間を
七つに潜り流れる
ゆるい水の移動。
ごつごつと
ぶよぶよと
無限につづくものが
湾口の
島島につきあたる。

[#ここから1字下げ]
(ああ おれたちは
魚ではないから
黙って腹をかえすわけにはゆかぬ、
ビキニ環礁《かんしょう》が噴きあげた
何万トンかの海水を映したのは
豚・
羊・
猿・
実験動物たちの
きょとんとした目・目・目だ)
[#ここで字下げ終わり]

日が焼けつく、
雨が滲み入る、
ひろいひろい瓦礫の三里四方
白骨と煉瓦屑をならして
たしかに
三尺ばかり
高くなったヒロシマ。
死者 二四七、〇〇〇。
行方不明 一四、〇〇〇。
負傷 三八、〇〇〇。
原爆遺跡ちんれつ所にころがる
灼《や》けた石、
溶《と》けた瓦、
へしゃがれたガラスビン、
そして埃をかぶった
観光ホテルの都市計画パンフ。

しかし
一九五一年
きょうも燃えあがる雲。
それをかすめ
ふわりと浮遊する
たしかにあれは 白点二つ、
あ・あれだ!
地球の裏から無線でひもをつけた
原爆効果測定器の落下傘。
おれたち
ヒロシマ族の網膜から
消えることのない
あのあさの
らっかさんが
ふうわりと
雲のかげで
あそんでいる。
[#改ページ]

  ちいさい子

ちいさい子かわいい子
おまえはいったいどこにいるのか
ふと躓《つまず》いた石のように
あの晴れた朝わかれたまま
みひらいた眼のまえに
母さんがいない
くっきりと空を映すおまえの瞳のうしろで
いきなり
あか黒い雲が立ちのぼり
天頂でまくれひろがる
あの音のない光りの異変
無限につづく幼い問のまえに
たれがあの日を語ってくれよう

ちいさい子かわいい子
おまえはいったいどこにいったか
近所に預けて作業に出かけた
おまえのこと
その執念だけにひかされ
焔の街をつっ走って来た両足うらの腐肉《ふにく》に
湧きはじめた蛆《うじ》を
きみ悪がる気力もないまま
仮収容所のくら闇で
だまって死んだ母さん
そのお腹《なか》におまえをおいたまま
南の島で砲弾に八つ裂かれた父さんが
別れの涙をぬりこめたやさしいからだが
火傷と膿と斑点にふくれあがり
おなじような多くの屍とかさなって悶《もだ》え
非常袋のそれだけは汚れも焼けもせぬ
おまえのための新しい絵本を
枕もとにおいたまま
動かなくなった
あの夜のことを
たれがおまえに話してくれよう

ちいさい子かわいい子
おまえはいったいどうしているのか
裸の太陽の雲のむこうでふるえ
燃える埃の、つんぼになった一本道を
降り注ぐ火弾、ひかり飛ぶ硝子のきららに
追われ走るおもいのなかで
心の肌をひきつらせ
口ごもりながら
母さんがおまえを叫び
おまえだけ
おまえだけにつたえたかった
父さんのこと
母さんのこと
そしていま
おまえひとりにさせてゆく切なさを
たれがつたえて
つたえてくれよう

そうだわたしは
きっとおまえをさがしだし
その柔い耳に口をつけ
いってやるぞ
日本中の父さん母さんいとしい坊やを
ひとりびとりひきはなし
くらい力でしめあげ
やがて蠅のように
うち殺し
突きころし
狂い死なせたあの戦争が
どのようにして
海を焼き島を焼き
ひろしまの町を焼き
おまえの澄んだ瞳から、すがる手から
父さんを奪ったか
母さんを奪ったか
ほんとうのそのことをいってやる
いってやるぞ!
[#改ページ]

  墓標

君たちはかたまって立っている
さむい日のおしくらまんじゅうのように
だんだん小さくなって片隅におしこめられ
いまはもう
気づくひともない
一本のちいさな墓標

「斉美《せいび》小学校戦災児童の霊」

焼煉瓦で根本をかこみ
三尺たらずの木切れを立て
割れた竹筒が花もなくよりかかっている

AB広告社
CDスクーター商会
それにすごい看板の
広島平和都市建設株式会社
たちならんだてんぷら建築の裏が
みどりに塗った
マ杯テニ
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