以来 敵も味方も 空襲も火も
かかわりを失い
あれほど欲した 砂糖も米も
もう用がなく
人々の ひしめく群の 戦争の囲みの中から爆《は》じけ出された あなた
終戦のしらせを
のこされた唯一の薬のように かけつけて囁《ささや》いた
わたしにむかい
あなたは 確かに 微笑した
呻《うめ》くこともやめた 蛆《うじ》まみれの体の
睫毛《まつげ》もない 瞼のすきに
人間のわたしを 遠く置き
いとしむように湛《たた》えた
ほほえみの かげ

むせぶようにたちこめた膿《うみ》のにおいのなかで
憎むこと 怒ることをも奪われはてた あなたの
にんげんにおくった 最後の微笑

そのしずかな微笑は
わたしの内部に切なく装填《そうてん》され
三年 五年 圧力を増し
再びおし返してきた戦争への力と
抵抗を失ってゆく人々にむかい
いま 爆発しそうだ

あなたのくれた
その微笑をまで憎悪しそうな 烈しさで
おお いま
爆発しそうだ!
[#改ページ]

  一九五〇年の八月六日

走りよってくる
走りよってくる
あちらからも こちらからも
腰の拳銃を押えた
警官が 馳けよってくる

一九五〇年の八月六日
平和式典が禁止され
夜の町角 暁の橋畔《きょうはん》に
立哨《りっしょう》の警官がうごめいて
今日を迎えた広島の
街の真中 八丁堀交差点
Fデパートのそのかげ

供養塔に焼跡に
花を供えて来た市民たちの流れが
忽ち渦巻き
汗にひきつった顎紐が
群衆の中になだれこむ、
黒い陣列に割られながら
よろめいて
一斉に見上るデパートの
五階の窓 六階の窓から
ひらひら
ひらひら
夏雲をバックに
蔭になり 陽に光り
無数のビラが舞い
あお向けた顔の上
のばした手のなか
飢えた心の底に
ゆっくりと散りこむ

誰かがひろった、
腕が叩き落した、
手が空中でつかんだ、
眼が読んだ、
労働者、商人、学生、娘
近郷近在の老人、子供
八月六日を命日にもつ全ヒロシマの
市民群衆そして警官、
押し合い 怒号
とろうとする平和のビラ
奪われまいとする反戦ビラ
鋭いアピール!

電車が止る
ゴーストップが崩れる
ジープがころがりこむ
消防自動車のサイレンがはためき
二台 三台 武装警官隊のトラックがのりつける
私服警官の堵列《とれつ》するなかを
外国の高級車が侵入し
デパートの出入口はけわしい検問所とかわる

だがやっぱりビラがおちる
ゆっくりと ゆっくりと
庇《ひさし》にかかったビラは箒《ほうき》をもった手が現れて
丁寧にはき落し
一枚一枚 生きもののように
声のない叫びのように
ひらり ひらりと
まいおちる

鳩を放ち鐘を鳴らして
市長が平和メッセージを風に流した平和祭は
線香花火のように踏み消され
講演会、
音楽会、
ユネスコ集会、
すべての集りが禁止され
武装と私服の警官に占領されたヒロシマ、

ロケット砲の爆煙が
映画館のスクリーンから立ちのぼり
裏町から 子供もまじえた原爆反対署名の
呼び声が反射する
一九五〇年八月六日の広島の空を
市民の不安に光りを撒き
墓地の沈黙に影を映しながら、
平和を愛するあなたの方へ
平和をねがうわたしの方へ
警官をかけよらせながら、
ビラは降る
ビラはふる
[#改ページ]

  夜

視野を包囲し
視神経を疼《うず》かせ
粟粒《ぞくりゅう》するひろしまの灯
盛りあがった傷痕《きずあと》の
ケロイドのつるつるの皮膚にひきつって
濡れた軌条がぬたくり
臓物の臭う泥道に
焼け焦げた並木の樹幹からぶよぶよの芽が吹き
霖雨《りんう》の底で
女の瞳は莨《たばこ》の火よりもあかく
太股に崩れる痣《あざ》をかくさぬ

ひろしまよ
原爆が不毛の隆起を遺《のこ》すおまえの夜
女は孕むことを忘れ
おれの精虫は尻尾を喪《うしな》い
ひろしまの中の煌《きら》めく租借地
比治山公園の樹影にみごもる
原爆傷害調査委員会のアーチの灯が
離胎《りたい》する高級車のテールライトに
ニューメキシコ沙漠の土民音楽がにじむ
夜霧よ

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(彼方河岸の窓の額縁《がくぶち》に
のびあがって 花片を脱ぎ
しべをむしり
猫族のおんなは
ここでも夜のなりわいに入る)
[#ここで字下げ終わり]

眼帯をかけた列車を憩わせる駅の屋上で
移り気な電光ニュースは
今宵も盲目文字を綴《つづ》り
第二、第三、第百番めの原爆実験をしらせる
どこからかぽたぽたと血をしたたらせながら
酔っぱらいがよろめき降る
河岸の暗がり
揺れきしむボート
その中から
つと身を起すひょろ長い兵士
屑鉄|漁《あさ》りの足跡をかくし
夜汐は海からしのび寄せる

蛾《が》のように黝《うすぐろ》く
羽ばたきだけで空をよぎるものもあって
夜より明け方へ
あけがたより夜の闇へ
遠く吊された灯
墜ちようとしてひっかかった灯

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