びえつつ忘れようとしている灯
ぶちまけられた泡沫の灯
慄《ふる》える灯 瀕死の灯
一刻ずつ一刻ずつ
血漿《けっしょう》を曳き這いずり
いまもあの日から遠ざかりながら
何処ともなくいざり寄るひろしまの灯
歴史の闇に
しずかに低く
ひろしまの灯は溢れ
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  巷にて

おお そのもの

遠ざかる駅の巡査を
車窓に罵りあうブローカー女たちの怒り

くらがりにかたまって
ことさらに嬌声《きょうせい》をあげるしろい女らの笑い
傷口をおさえもせず血をしたたらせ
よろめいていった酔っぱらいのかなしみ
それらの奥に
それらのおくに

ひとつき刺したら
どっと噴き出そうなそのもの!
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  ある婦人へ

裂けた腹をそらざまに
虚空《こくう》を踏む挽馬《ばんば》の幻影が
水飼い場の石畳をうろつく
輜重隊《しちょうたい》あとのバラック街

溝露路の奥にあなたはかくれ住み
あの夏以来一年ばかり
雨の日の傘にかくれる
病院通い
透明なB29[#「29」は縦中横]の影が
いきなり顔に墜《お》ちかかった
閃光の傷痕は
瞼から鼻へ塊りついて
あなたは
死ぬまで人にあわぬという

崩れる家にもぎとられた
片腕で編む
生活の毛糸は
どのような血のりを
その掌に曳くのか

風車がゆるやかに廻り
菜園に子供があそぶこの静かな町
いく度か引返し
今日こそあなたを尋ねゆく
この焼跡の道

爬虫《はちゅう》のような隆起と
柔毛《やわげ》一本|生《は》えぬてらてらの皮膚が
うすあかい夕日の中で
わたくしの唇に肉親の骨の味を呼びかえし
暑さ寒さに疼《うず》きやまぬその傷跡から
臭わしい膿汁《のうじゅう》をしたたらせる
固いかさぶたのかげで
焼きつくされた娘心を凝《こご》らせるあなたに対《むか》い
わたしは語ろう
その底から滲染《し》み出る狂おしい希《ねが》いが
すべての人に灼きつけられる炎の力を
その千の似姿が
世界の闇を喰いつくす闘いを

あたらしくかぶさる爆音のもと
わたしは語ろう
わたしの怒り
あなたの呪いが
もっとも美しい表情となる時を!
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  景観

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
ぼくらはいつも燃える景観《けいかん》をもつ

火環列島の砂洲《デルタ》の上の都市
ビルディングの窓は色のない炎を噴き
ゴーストップが火に飾られた流亡《るぼう》の民を堰止《せきと》めては放出する
煙突の火の中に崩れ 火焔に隠れる駅の大時計
突端の防波堤の環に 火を積んで出入りする船 急に吐く音のない 炎の汽笛
列車が一散に曳きずってゆくものも カバーをかけた火の包茎《ほうけい》
女はまたぐらに火の膿《うみ》を溜め 異人が立止ってライターの火をふり撒《ま》くと
われがちにひろう黒服の乞食ども
ああ あそこでモクひろいのつかんだ煙草はまだ火をつけている

ぼくらはいつも炎の景観に棲《す》む
この炎は消えることがない
この炎は熄《や》むことがない
そしてぼくらも もう炎でないと誰がいえよう

夜の満都の灯 明滅するネオンの燠《おき》のうえ トンネルのような闇空に
かたまってゆらめく炎の気配 犇《ひし》めく異形《いぎょう》の兄弟
ああ足だけの足 手だけの手 それぞれに炎がなめずる傷口をあけ
最後に脳が亀裂し 銀河は燃え
崩れる
炎の薔薇《ばら》 あおい火粉
疾風の渦巻き
一せいに声をあげる闇
怨恨 悔 憤怒 呪詛 憎悪 哀願 号泣
すべての呻きが地を搏《う》ってゆらめきあがる空
ぼくらのなかのぼくら もう一人のぼく 焼け爛《ただ》れたぼくの体臭
きみのめくれた皮膚 妻の禿頭 子の斑点 おお生きている原子族
人間ならぬ人間

ぼくらは大洋の涯《はて》 環礁《かんしょう》での実験にも飛び上がる
造られる爆弾はひとつ宛《ずつ》 黒い落下傘でぼくらの坩堝《るつぼ》に吊りさげられる
舌をもたぬ炎の踊り
肺のない舌のよじれ
歯が唇に突き刺り 唇が火の液体を噴き
声のない炎がつぎつぎと世界に拡がる
ロンドンの中に燃えさかるヒロシマ
ニューヨークの中に爆発するヒロシマ
モスクワの中に透きとおって灼熱するヒロシマ
世界に瀰漫《びまん》する声のない踊り 姿態の憤怒
ぼくらはもうぼくら自体 景観を焼きつくす炎
森林のように 火泥《かでい》のように
地球を蔽いつくす炎だ 熱だ

そして更に煉られる原子爆殺のたくらみを
圧殺する火塊《かかい》だ 狂気だ
[#ここで字下げ終わり]
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  呼びかけ

いまでもおそくはない
あなたのほんとうの力をふるい起すのはおそくはない
あの日、網膜を灼く閃光につらぬかれた心の傷手から
したたりやまぬ涙をあなたがもつなら
いまもその裂目から どくどくと戦争を呪う血膿《ちうみ》をしたたらせる
ひろしまの体臭をあなたがもつな
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