此の影も
記憶の傷に這いずって
消えぬものであろうに

憐れに善良で
てんと無関心な市民のゆききのかたわらで
陽にさらされ雨に打たれ砂埃にうもれて
年ごとにうすれゆくその影
入口の裾に「遺跡」を置く銀行は
ざらざらと焼けた石屑ガラス屑を往来に吐き出し
大仕掛な復旧工事を完成して
巨大な全身を西日に輝かせ
すじ向いの広場では
人を集める山伏姿の香具師《やし》

「ガラスの蔽いでもしなければ消えてしまうが」と
当局はうそぶいて
きょうも
ぶらぶらやって来たあちらの水兵たちが
白靴を鳴らして立止り
てんでにシャッターを切ってゆくと
あとから近寄ってきたクツミガキの子が
(なァんだ!)という顔で
柵の中をのぞいてゆく
[#改ページ]

  友

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
黒眼鏡をとると瞼がめくれこんで癒着した傷痕《きずあと》のあいだから
にじみ出る涙があった
あの収容所で、凝《こ》りついた血をしめらせ
顔いっぱいに巻いた白布を一枚|宛《ずつ》ほどき最後のガーゼをめくると
ひとつの臓腑であった両眼が、そのままのかたちで癒《い》えてうすいしずくをしみ出し
失った妻子のことをいう指先が手巾《ハンケチ》をさぐって顫《ふる》えていた

〈ここはどこ、どんなところです?〉死体置場から運ばれて来て
最初に意識をとり戻したときと同じ言葉を
また口にしながら
太い青竹をとりなおし、ゲートルの脚先でしきいをさぐり
そろそろと出ていった

――こうされたことも共に神に免《ゆる》されねばならぬ――
――ひとり揉めば五十円になる、今に銀めしをごちそうします――
カトリックに通い、あんまを習い、すべての遍歴《へんれき》は年月の底に埋《うも》れて
ある冬近い日暮れ
束ね髪の新しい妻に手をひかれた兵隊服の姿を電車の中から見た

〈ここはどこ、どんなところです?〉それは街の騒音の中で
自分の均衡《きんこう》をたしかめるように立止り
中折帽の顔だけを空の光りへ向け
たえず妻に何かを訊《たず》ねかけているように見えた
さらに数年、ふたたび北風の街角で向うからやってくる
その姿があった
それは背中を折りまげ予備隊の群をさけながら
おどろくほどやつれた妻の胸にしっかりと片腕を支えられ
真直に風に向って
何かに追いつこうとするように足早に通っていった

黒眼鏡の奥、皮膚のしわからにじみ出るものは、とおく渇《か》れつくして
そのまま心の中を歩いてゆく
苦痛の痕跡《こんせき》であった
[#ここで字下げ終わり]
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  河のある風景

すでに落日は都市に冷い
都市は入江の奥に 橋を爪立たせてひそまる
夕昏《ゆうぐ》れる住居の稀薄《きはく》のなかに
時を喪《うしな》った秋天《しゅうてん》のかけらを崩して
河流は 背中をそそけだてる

失われた山脈は みなかみに雪をかずいて眠る
雪の刃は遠くから生活の眉間《みけん》に光をあてる
妻よ 今宵もまた冬物のしたくを嘆くか
枯れた菊は 花瓶のプロムナードにまつわり
生れる子供を夢みたおれたちの祭もすぎた

眼を閉じて腕をひらけば 河岸の風の中に
白骨を地ならした此の都市の上に
おれたちも
生きた 墓標

燃えあがる焔は波の面に
くだけ落ちるひびきは解放御料の山襞《やまひだ》に
そして
落日はすでに動かず
河流は そうそうと風に波立つ
[#改ページ]

  朝

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
ゆめみる、
閃光の擦痕《さっこん》に汗をためてツルハシの手をやすめる労働者はゆめみる
皮膚のずりおちた腋臭《わきが》をふと揮発させてミシンの上にうつぶせる妻はゆめみる
蟹《かに》の脚のようなひきつりを両腕にかくして切符を切る娘もゆめみる
ガラスの破片を頚《くび》に埋めたままの燐寸《マッチ》売りの子もゆめみる、

癧青《れきせい》ウラン、カルノ鉱からぬき出された白光の原素が
無限に裂けてゆくちからのなかで
飢えた沙漠がなみうつ沃野《よくや》にかえられ
くだかれた山裾を輝く運河が通い
人工の太陽のもと 極北の不毛の地にも
きららかな黄金の都市がつくられるのをゆめみる、
働くものの憩いの葉かげに祝祭の旗がゆれ
ひろしまの伝説がやさしい唇に語られるのをゆめみる、

噴火する地脈 震動する地殻のちからを殺戮《さつりく》にしか使いえぬ
にんげんの皮をかぶった豚どもが
子供たちの絵物語りにだけのこって
火薬の一千万倍 一グラム一〇、〇〇〇、〇〇〇のエネルギーが
原子のなかから人民の腕に解き放たれ
じんみんのへいわのなかで
豊饒《ほうじょう》な科学のみのりが
たわわな葡萄《ぶどう》の房のように
露にぬれて
抱きとられる
朝を
ゆめみる
[#ここで字下げ終わり]
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  微笑

あのとき あなたは 微笑した
あの朝
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