落ちてゆく世界
久坂葉子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)それを煮《た》いて

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)五十|瓦《グラム》の

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(例)[#ここから3字下げ]
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 ある日――
 足音をしのばせて私は玄関から自分の居間にはいり、いそいで洋服をきかえると父の寐ている部屋の襖をあけました。うすぐらいスタンドのあかりを枕許によせつけて、父はそこに喘いでおります。持病の喘息が、今日のような、じめじめした日には必ずおこるのです。秋になったというのに、今年はからりと晴れた日はまだ一日もなく、なんだか、あついような、そして肌寒い毎日でありました。
「唯今かえりました。おそくなりまして。いかがでございますか……」
 父は黙って私の顔をみつめております。私は父のその目付を幾度もうけて馴れておりますものの、やはりそのたびに一応は、恐れ入る、という気持になって、丁寧に頭をさげます。そして、ぎごちなく後ずさりをして部屋を出ました。
 つめたい御飯がお櫃の片側にほんの一かたまり。それに大根の煮たのが、もう赤茶けてしるけもなくお皿にのっております。土びんには、これもまたつめたい川柳のお茶がのこりすくなくはいっております。私はいそいでお茶漬けにして、食事を済ませました。胃のなかに、かなしいほどつめたいものが大いそぎでおちこんだという感じがします。その時、母が父の部屋にはいったらしく、二人の会話がきこえて来ました。私のことなのです。
「雪子は御飯まだなんだろ。九時になるというのに」
「何ですかねえ。夕方から出ちまって、家の事ったら何一つしようとしないで……」
「あなたがさせないからいけないのです」
「申し訳ございません」
 母は父の背中をさすっているらしく、時折苦しそうなその父の声と、母のものうさそうな声にまじって、つむぎの丹前のすれあう音がします。私には両親の語る言葉が、自分のことだとさえ感じられないくらいなのです。それよりも、今日父に五十|瓦《グラム》の輸血をしてあげて、交換にもらった五百円のその現金で買って来た李朝の皿のことで一ぱいでした。薬も、注射も三時間しか効果なく、それも度々やるためにだんだん効力が失われてきて、輸血をしたらよくなると一人の医師の言葉に従って、私の血を父の血管の中にいれました。父は、母に財布を取りに行かせ、黙って百円紙幣を五枚、私の前に並べたのです。私も一言も云わないで、それをもらうと家を出たのでした。夕方のうすらさむい街を歩きました。そしてほしかったその皿を買い、残りでコーヒをのみ、高級煙草も吸いました。
 穢れた食器をガチャガチャ手荒く洗って、ぞんざいに戸棚の中へかさねて置くと、自分の部屋に戻って新聞紙のつつみをほどきました。陶器のそのとろっとした肌を頬につけてしばらくそれを愛撫しました。
「又、姉様の隠居趣味。食うに困ってるのに。そんなもの買う位なら牛肉でも買って来てくれりゃいいんだ」
 はいって来た弟の信二郎は、いきなり皿を爪はじきしました。
「いけない。こわれるじゃないの」
 私はそれを本棚の上に置きました。父の、「血」が「皿」になったそのことが、私には滑稽に思われて来ました。皿の包みを大事に抱きながら、一人で夜の街を歩いたことが、私を喜ばせます。隠居趣味? 信二郎の云った言葉を思い浮かべました。非難なのでしょうか。嘲弄の気持からでしょうか。私には、羨望だろうと思われました。自分の逃げ場所を、こんなものに求めるところは、父と私のたった一つの共通した点でありました。戦争の始まるもっと前、父は私を連れて、京都の古物屋へよく行きました。そして、茶碗や、壺、鉄びんなどを買って来て、二階の父の部屋に並べました。日本に二つしかないという鶏冠壺は、それ等のなかで、一番大事にしておりましたけれど、戦火の下に、やはり他のものと一しょになくなっておりました。しばらくの間、失った子供をなつかしむように、私は数々の品を一つずつ目の前にうかべて、回想にふけっておりました。
 急にジャズが、やかましく鳴り出しました。とすぐ、ぷっつりきれて静寂にかえりました。
「そら、しかられた。馬鹿ね、信二郎さん」
 いつの間にか、隣の部屋へ出て行った信二郎を、私は軽く叱りました。父が苦しそうに、それでもかなりの大きい声を出して怒っております。
「ふん、ジャズもわからないのか。全く、家にいるのは、ゆううつさ。面白くもねえ、姉様だってアプレの癖に……」
「こんな老嬢もやはりアプレのうちなのね」
「来年から年一つ若くなるんだよ。だけど、麻雀やカードは話せるなあ」
 私は賭事、勝負事は三度の御飯より好きなのです。私は夢中になって勝とうと致します。その間は、他のことをすっかり忘れております。
「姉様、僕アルバイトやろうと思うんだけども」
 その時、又私の部屋にはいって来た信二郎は、小さな声でそう云いました。
「何の?」
「ジャズバンドさ。スティールギター」
「いつ覚えたの」
「いつだっていいさ、大したもんなんだぜ」
「いいわ、おやんなさい。でも夏のこともあるんだからよく考えてからよ」
 夏のこととは、野球場でアイスキャンデーをうりあるくとはりきって、いよいよ、そのアルバイトの初めの日、いさんで西宮へ出かけた信二郎は、からのキャンデー箱を肩からつけて二三歩あるいたなり、もう動けなかったという話であります。「それみろ」父は申しました。信二郎は今年新制大学にはいりました。一人前に角帽をかぶっているのに、末子で、いつまでたっても一人でどんどん事をはこぶことが出来ません。
「母様にはときふせてあげましょう。父様は、金城鉄壁だけれど、何とかなるでしょう」
「ダンケ。頼むよ」
 父が、嗅薬を用いたとみえて、きなくさい臭いが家内中にただよいました。それから私は信二郎と二人で、さいころを始めました。私が勝てば元々で、弟にまければ、先刻の煙草一本まきあげられるのです。私は何のことはない、損なことですけれど、つまりさいころを転がすこと自体が面白いのです。

 あくる日――
 私は兄の見舞いに病院へ行きました。たった一人の兄は信一といって大学に通っておりましたが、戦争中の無理が原因となって、一昨年の夏、肺結核のため入院したのでした。要心深い細心な人ですから、入院して以来、一歩も外へ出ずに、じっと養生しているのでしたけれど、この病気は簡単にはなおらず、今も気胸をつづけて入院しているのでした。
 長い廊下をつきあたるとすぐその端の部屋が兄の病室でありました。庭に咲いた菊を五六本、新聞紙に包んだのを私は持っております。ノックをすると低い声で返事がありました。
「おはようございます。いかが、御気分は」
「やあ」
 兄は上半身を起して私の方をみました。
「きれいな菊、中庭のかい」
「ええそう、香りはあまりないけれど」
 私はコスモスが枯れたままつっこんであるペルシャの青い壺に、その菊を活けました。白いはなびらときいろい芯とがこの青い壺にはよくうつります。柔い丸みの壺の肌を、兄は大変好んでいて、売れば随分の価になるものでしたけれど、兄のためにおいてあるのでした。
「兄様、父様に輸血をしたの」
「父様随分おわるいの?」
「そんなでもないのよ、いつもの如くなの。雪子の五百円也の血……、ふふ」
 私は白いお皿を思い出して笑いました。
「五百円って?」
「売ったのよ、血を……」
「え、お前、父様に? そして五百円受けとったの?」
「いけない? 雪子、それみな使ったわ、今度ん時は兄様、モツァルトのレコード買ったげるわね」
「親子じゃないか、しようのないひとだ」
 話はとぎれます。私はサンダーボックスのふたをあけて、兄の好きなというより、もう心酔してしまっているモツァルトのものをかけ出しました。ニ長調のロンドです。兄は白い敷布の上に長く寐て目をつむりながらきいております。
「ねえ、信二郎さんがジャズバンドのアルバイトやりたいって、雪子に昨夜云ったんだけど、兄様、どうお思いになる?」
「信二郎が、あれ勉強してるのかい、夜稼ぐのじゃ大変じゃないか、おそく迄なんだろう」
「でも土曜日曜らしいことよ。それも、きまってあるのじゃなくて……」
「僕のように体をこわしちゃつまらないからな、で何をやるの」
「スティールギター。借りるんだって? で一二回やれば自分のを買う事が出来るっていうの」
「まあ、場所が場所だから、僕は反対だけれど……。二年間も世間と没交渉なんだからな、口はばったいことは云えないね。僕の気持も世間からみれば馬鹿な時代おくれなものだろうが……」
「兄様、そんなことはない。どんな世の中になっても兄様はモツァルトの音楽を愛する方でなきゃ……」
 私は兄の部屋をあらためてみまわしました。中宮寺の観音像やモツァルトの肖像の額がかけてあります。その下には、外国の絵の本やカタログや、レコードの類がぎっしりあります。この夏、皮表紙のルーヴルのカタログを売ろうと云い出した時、兄は怒ったように私の瞳をにらんでおりました。そして、あのレコードを、この本をと、あれこれ買って来てくれといつも私にたのむのです。私はそのために、お金の工面をせねばなりません。一カ月でも注文品をおくらせますと、大変な権幕でおこり出してしまうのです。
「とにかく、信二郎のことは私が責任持つわ、あれだってもう、本を買ったりしなきゃならないんですものね」
 私は病院の玄関まで送りに出て来た兄と握手をして坂を降りました。悄然とたたずんでいるその兄の姿は、どうみても時代の臭いのない、もう世間から追い出しをくった者のような気がして、さっきはなしたことを思い出しながら私自身かなしくなりました。
 病院の帰りに、古いジャケットを売って三百円得ました。それで私はコーヒをのみ、インキと便箋を買い、残りの百円で映画でもみようとにぎやかな街に出ました。と、そこに、信二郎の後姿をみました。三十五六のやせ型の美しい奥さんと一しょです。まっぴるま、学校へは行かないで。私は不安な気持になりました。いつになくズボンの折目をただすために寐押しをしていた昨夜の信二郎の姿を思い出します。私はその後を三十|米《メートル》もつけてあるきましたが、ふと横筋にそれるとそこの袋小路で長い間ただつったっておりました。信二郎は一体どんな気持でいるのでしょうか。
 信二郎は小さい時から気立てのやさしい素直な子でした。体が弱く一年のうち寐ている方が多いようでした。自然、外へ出て近所の子供達とあそぶような事はなく、家の中で本をよんだり縁側でカナリヤの世話をしたりすることを好んでおりました。他所の人がよく勝気な私と比べて、信二郎と私といれちがっておればよかったと申しました。顔立ちもおとなしく、今でも餅のような肌をしていて、目の下などにうすいうぶ毛があります。背は私よりかなり高いのですが、抱きしめてやりたいようなあいらしさを持っております。私は姉が弟に対する世間一般の気持以上のものをいつからか持っておりました。若い仲間より自分が一人とりのこされたようなさみしさをなくすために、私は、よくお酒をのみにゆきますけれど、そんな時、わいわいさわいでいる中に、たえず信二郎のことは忘れませんでした。信二郎は姉の私に口答えもせず、いい子でしたけれど、私のともすれば行動にまで出る愛撫をきらっておりました。それなのに、信二郎は年上の奥様の愛撫をうけているのではないでしょうか。おさげの女学生なら私は何とも思いません。相手が私と向いあっているような人だけに私は敗北感に似たものを感じ、嫉妬さえおこしました。露地を出て、家へかえるまで私は信二郎のことを考えつづけました。映画をみる気も起りません。この頃、よく新聞に出ている阪神間の婦人方の乱行ぶりの記事がちらと頭をかすめました。信二郎だけはまっすぐに歩んでほしいのです。兄様は落伍者、私は女なのですから、始めっから大した希望も抱負もないのです。信二郎が大きくなってこの家をおこさね
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