るは縫物をとてもよくし、私など洗い張りした着物はいちいち軽井沢へ送っておはるに縫ってもらっていた。
ところがそのおはるが終戦の翌年の春、私と作衛にみまもられつつ死んで行ったのだった。持病の関節炎が結核性だったりしたもんで、しまいには脳がおかされ、物が判らなくなり、その死に方は本当にかわいそうなものだった。軽井沢で葬いをすませて三十五日たったけれど作衛はすっかり沈んでしまい、毎日、位牌の前にすわって泣いていた。私はその白髪まじりの作衛の後姿を何度もみた。だんだんやせほそってさびしそうであった。
おはるの初盆がすぎてまもなく、神戸に作衛を連れ帰った私は、邸をうりはらい郊外へ移りすんだのだった。その頃になっても作衛はおはるの事を思いつづけていた。夜など、私と行雄が絵本をひろげてゆめのような話をしあっている所へ来て、作衛はおはるの追憶ばなしをしつこい程するのだった。私はそのたびにその時はまだ生きていると思っていた夫のことを思い出し、私にはまだ待つという希望があることを喜び、作衛の孤独に同情した。作衛には諦めなければどうにも仕様のないことだったから。
ところがその翌年の春に、夫の亡きことを
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