はかった。蘇生した。その揚句、肺病になったのである。肺病は半年間の療養を宣言された。最初肋膜をわずらい、二週間絶対安静、一カ月安静を強いられた。だが、私は煙草を吸い、読書をし、ペンをもとった。「華々しき瞬間」は、ふとんの上でかかれたのである。たん壺を傍に、体温計を枕許に、そして、三時間毎に熱をはかりながら、ものすごいスピードで書きはじめた。書く前に、私は、ボーヴォワールの「招かれた女」をよんでいた。彼女の小説はある意味で私の創作の方向をかためてくれたようにも思われた。一つの存在の価値は、他の存在によってはじめて認められるのだということを、私は「華々しき瞬間」に於いて試みたのだ。勿論、そればかりではない。誰でももっている、相反した感情の動きを、とらえてみようとした。百五十枚の原稿を、私はすぐに富士氏の許へ送った。その返事はボロクソだったのだ。それでも私はくじけず、書きなおしてみた。それがVILLON第一号に掲載されたのだ。その後、私はよく書きまくった。そしてVIKINGにも復帰し、古い原稿を整理しては発表して行った。あらたに、二百枚近くの小説も書いた。そのうち、病気はなおってしまったのである。丁度、五月頃書いた戯曲がきっかけで、神戸に演劇研究所なるものが誕生し、私は別に、大した興味もなかったのだが、ずるずるひきこまれて、恢復した途端から、いそがしく動きまわらねばならない状態になった。病気中に作曲を志し、それにも夢中になりかけたが、もともと根気のない私は、ハーモニーというむつかしい問題で作曲を断念した。久坂葉子は、病気以後、わずかに活躍した。詩の朗読会なるものをおっぱじめ、それは、失敗に終ったけれど、一カ月の間はいそがしく専念した。さて、VILLONの、「華々しき瞬間」、の問題にかえろう。この小説が、確かに、久坂葉子を死亡させなければならないと強いたのである。多くの人の批評(酷評)がこたえて私は、小説を書くことを断念しようと思ったのではない。私は、大へんな苦しみでこの作品を書きあげたことが馬鹿々々しくなったのである。たしかに、白紙の原稿用紙にむかう時は、書かなければおさまらない衝動にかられる。短いものを、一息に、その衝動の引力でもって書いてしまうこともある。今迄、私の多くの作品は、そんな状態でうまれた。安産であった。出来たての子が阿呆にしろ善人にしろ安産であった。しかし
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