。私の才能は、ラジオ向に出来ていなかったので、暫くすると、童話劇など久坂は出来ないんだ、というレッテルがはられたらしい。私も、嫌で仕方がなかった。何度もやめようと思った。第一の原因は、ますます小説がかけなくなったからである。その頃、二つ程、かいたものは、今だってよむにたえない。富士氏のところへ持って行って、大馬鹿野郎としかられたものだ。彼は、私をじっとみつめながら、ラジオと縁をきれ、とぼそっと云った。はいと私はこたえたが、丁度、クラブで御払い箱になった私は、収入の点で、やはりNJBにくっついていたかった。その上、私は、一生のうちに、もう二度とくりかえさないだろう程の大恋愛の最中だったのだ。ラジオに関係のある人だったから、辞めるわけにはゆかない。私は、小説が書けない、何も出来ない状態のまま、NJBに通っていた。そして、彼との媾曳《あいびき》だけで生きていた。他に何も考えなかった。未来のことも、仕事のことも、すべて無理矢理に、私は自分で考えるなと強いたのだ。たしかに私は、大いなる誤算をしたわけだ。恋愛はとんだ結末になりかけた。私は、何でもいいから私だけの仕事をしたいとのぞんだ。偶然、又新日報という新聞が出来、最初の連載小説をたのまれた。一回千円の契約で、年内中に二十回分を渡した。一月四日から、奥村隼人氏のさしえで、「坂道」は発表されて行った。ごたごたした感情と、ごたごたした生活を送っていたため、実に荒いまずい小説だと自分で感じながら、とにかく書いたものが、たかが地方のヤボな新聞であれ、発表されてゆくことが、何らかの気やすめになったのである。ところが、この新聞は、四十五回の私の小説が終った途端、廃刊になり、稿料は二万円もらわずじまいになってしまった。もっとどんどんさいそくしたらよかったのに、恋愛の破局と共に、私は、九州の果てへ旅立ったのであった。二月のはじめ頃であった。前年の秋、東京や箱根へ遊び、一月には、白浜や龍神を訪ねたのだが、その時の晴やかな気分とは全く違って、重くるしさと苦しさで一ぱいになって、西へむかったのである。私は、仕事も恋愛もほうり出して、田舎の小学校の先生にでもなろうとした。しかし、広島で女学校の先生に説教され、九州をあちこち放浪するうちに、都会へ舞い戻りたい衝動にかられ、見事に、又、ふらりと帰ったのである。そしていよいよどうにもならず、薬をのんで自殺を
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