をよむことさえ出来なかった。何故ならば、五本の線が波打ってみえ、そこに踊っている黒い玉は不均等な姿勢でみえかくれした。私は楽譜を床へたたきつけ、ピアノにさよならを宣言した。母は私の一流ピアニストとしての舞台の姿を常に心に描いていたのだと云って歎いた。しかし、私の精神状態では、これ以上ピアノと取組むことは不可能であることを認め、強制すれば、又自殺しようという気になることを恐れて私を暫く自由にさせることを父や兄と相談の上でゆるしてくれた。私は、わずかなお金をもらっては、郊外へ散歩に出かけた。そして、詩ばかりをよんだ。朔太郎を私は愛した。その頃、詩をつくることもした。ある詩人が私の詩をみて、朔太郎が好きですね、と云った。それほど私は朔太郎にふれ、朔太郎から何ものかを受けていた。私は単身上京した。しかし流暢なアクセントになじめないですぐに帰って来た。私はやはり死に度いと思っていた。感傷ではなかった。唯、私は苦しみから逃避したかった。苦しみなんか、その年齢で全くナンセンスだと常識家の兄は嘲笑した。しかし、私の年齢でその苦しみは絶大のものであった。私は、自分の思う通りに生きてゆきたいと思い、それが不可能であることを理解していたのだ。それに私には力がなかった。根気や忍耐することが出来なかった。私は私流の考えで、戦争中の自分が羨しいとさえ思った。あの頃の余裕のない生活の方がまだしも楽であった。私は自分を磨滅させるようないそがしさがほしいと思った。いそがしさに自分の存在がなくなれば結構だと思った。自分を意識しないで生きてゆけるなら、それは最も楽なことだと考えた。私は就職を希望した。父母は真向から反対した。彼等には、どっしりと居据っている門構えが、頭の中に消えていなかった。御家の恥辱。これが第一の反対意見であり、又私の感情的に瞬間のスリルを求めて社会に出ようとしていることは不真面目だと叱られた。私はその希望が不真面目だか、真面目だか、私自身判断は下しかねた。あたり前に云えば、女学校を自発的に中退したのも不真面目かも知れないし、学校中、欠課や欠席をして、映画をみたり、京都や奈良を散策したことはやはり不真面目。それに、私は喫煙するようになっていた。これは未成年であるから、最も法律にふれる位の問題。私の今までの行動は、客観的に考えれば、不真面目と云われることばかりである。しかし、その時、その時、私は自分の行為に対して自分の感情は非常に真実であったことは確かなのだ。真面目に自分を考えている。今度の勤めたいというのも、生きなければならないという無条件の標語を無理につくりだして、そのために就職することが必要になったわけだから私には私独特の云いわけがあるのだ。私は、父母に内緒で新聞広告を切抜き就職口を探して来た。履歴書をかいて、ある羅紗問屋に面会にゆき給仕になった。もう、父母は唖然としたまま私に何らの口出しをしなかった。大寒の最中であった。よれよれの紺の上衣を着、ほこりっぽいズボンをはいた私の青い皮膚はかさかさしており、目はどんより曇り、眉間や唇の端は、たびたび、ぴりぴりとけいれんし、あの子供の頃の英雄ぶりは、微塵もみられなかった。当時、十六歳である。
第七章
「失業者が、毎日の食べるものも食べられないで、職業安定所の前にうろついているのをみたことがあるかね、ふん」
これが私に与えられた店員の最初の言葉であった。勤続十年の太った女秘書が、私をかばってくれた。
「石岡さん、そんな考え方はいけないわよ。いいとこのお嬢さんでも、どしどし、社会へ出る経験しなくちゃ」
有難い誤解であった。私は勇気のある社会見学の近代女性として、彼女の眼にうつったらしい。
社長の実弟で低能に近い、「分家さん」と呼称するところの重役は、私をうっとしい[#「うっとしい」に傍点]娘だと云った。しかし私は、にっこり笑ってみせる術をすぐに覚え、彼から忽ち気に入られた。
その日から私は忠実ぶりを発揮した。戦災にあって残った倉庫を改良し事務所にしているほこりっぽいところを、毎朝殆ど一人で掃除をした。この会社のおえらえ方は、みな丁稚上りであったから、細いことにいちいち気付いて、若いものはしかられ通しであった。私の仕事は、掃除と御茶汲みと新聞をとじたり郵便物を整理したりの雑用であり、おもに秘書の命令で働きまわった。
指先が真っ赤になり、がさがさの手がじんじんする頃、他の女店員達は通勤する。そうして申訳に箒やはたきをもったり、花の水かえをやる。おひる近くになると、七輪に火をおこして、おべんとうを暖めたり、火鉢に火をつぎ足したりする。得意先や、日本一だという毛織物会社の人が来ると、――この会社の一手販売をしている卸売業なのである――上等の御茶を、上等の茶器を使って出す。お湯はたえずたぎ
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