の日から、私は死にたいという衝動的な欲望が連続して頭の中をからまわりした。私は学校をずっと休んだ。国語の教師や、友達が見舞いに来た。私は、死にます、と云った。彼女等は冗談でしょう、と云った。私も苦笑した。死ぬ手段を考慮しておらなかった。私は首をくくろうと思った。「にんじん」の一場面が頭に浮んだ。私は、二三日後、それをこころみた。然し死ねなかった。私の行動に気付いた肉親達は私を警戒した。説諭もうけた。親は、自分達が苦労して育てたということをくりかえしくりかえし云った。そのことが私を余計腹立しくさせた。私は、しかし、死ぬ死ぬと云ったまま一週間死なないでいた。私は死ぬことも出来ないのだった。死ねば、死体がのこるだけだと思っていたけれども、唯、死ぬ方法が見当らなかったのだ。
私の手許に、生きて下さい、という手紙がたくさん舞いこんだ。田舎へ帰ってしまっていた前の国語の教師からも、
――私は何もあなたを慰め、あなたを説き伏せることは出来ない。でも、どうか、生きていて下さい。生きていて下さい。――
と云って来た。友達からは、
――あなたが死んでしまったということを想像した時、私はもう泣く涙さえないでしょう。あなたと御目にかかれるだけが私の幸福なんですもの。私をかわいそうだと思って頂戴。――
太った国語の教師からは、
――常識を嫌うあなたをわかることは出来ますが、あなたの才能のためにも生きてほしい。もう少し、あなた自身をかわいがっておやりなさい。――
この手紙は一番滑稽とさえ思われた。私自身を愛することなど、どうして出来よう。私には、世の中や人々や常識を嫌悪すると同じ位、自分自身を嫌悪しているのだし、自分に若し才能があるとしてもそれは生きてゆく上に何の役立もせぬものだから。
白雲や気儘気随に空を飛ぶ
この掛軸を常に居間にかかげている私の好きなある婦人からは、
――夫にさきだたれて十三年。孤独の中に生きているのです。誰かを愛して、心から熱愛して、そのために生きること。あなたも愛することです。――
という紫の紙にかかれた手紙が来た。死んだ人を愛しながらまだ生きてゆくという彼女の生命の血が、私には不思議にさえ思われた。彼女は、私の友達の母であり、その友達以上に私と親しくしていた。未亡人もやはり、世の常識をきらっていた。そして、自分は今まで白雲のように生きて来たのだと云っていた。彼女は彼女の恋愛のため、家から縁をたたれ、たった一人の夫のみで生きて来たのだったと云った。私にとっては、亡夫にあやつられている魂のない人形のように思えるのだった。そして、ちっともそう云った生活は自由でないと思った。無形の力に縛られているのに、彼女はそれを苦しまないでいる。まだ恋愛を知らない私は彼女の気持を理解することは到底出来ないでいた。
私を除いての家族会議が毎夜行われているようだった。私は学校へ行かないし、親にとってみれば今までかつてない事件だったろう。私はどうなってもいいと思って毎日ごろごろ寐ころんでいた。
母の意志で、私は大阪にある音楽学校へゆかされるようになった。もう後五カ月で卒業だという間際である。私は変った世界に飛びこまされることを拒否出来なかった。或いは其処に何か見出すかも知れないという淡い期待があったわけなのだ。私は始め聴講生という名目ではいった。ピアノと声楽とを修めるのだった。私は殆ど手がかたくなってしまっていたし、練習曲をしていなかったからまるで何もひけなかった。隣の教会のぼろぼろのピアノで毎日下さらいをせねばならなかった。朝、通学に二時間たっぷりかかる。そして、小さな練習室にはいってガンガン鳴らす。音楽理論や作曲法や実技がある。そして又二時間たっぷりかかって帰る。
その生活は最近の女学校生活の時より、もっと不愉快であった。凡そ音楽的な感覚のふんいきと云うものは見られなかった。私はよく狂人にならないことだと不審に思った。防音装置がたしかでない練習室なので、隣や向いの部屋のピアノの音が絶えず耳にはいる。バッハやショパンやエチュードが、ごったがえしになっている。だからそれぞれ、ピアニッシモはそのままフォルテを継続してひかねばならない。戦争中のあの弾の音よりも、もっとかなしい音である。それにピアノはがたがたで狂っている。私は他の生徒が平気なのが不思議で仕方なかった。音楽ではなかった。街の雑音の方がまだしも音楽的であった。私は一週間目に行く気がしなくなった。作曲法や理論の時間だけ顔を出し、他の日は毎日大阪で映画をみてかえった。朝家を出て、かの未亡人のところで一日遊んでいることもあった。冬休みが始まると同時に私はその学校もよしてしまった。私は神経衰弱になっていた。熟睡することが出来ず絶えずバッハのインヴェンションが頭の中にぐるぐるまわっていた。楽譜
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