らせておかねばならない。濃すぎても、うすすぎても、日本一の毛織物の人達は堂々と文句をいう。下っ端の若僧でも、こちらの重役は平身低頭している。寒い受付にすわっていて、彼等がやって来ると、
「マイド、ドウモ」
 と挨拶する。名前でもきこうものなら、大へんな見幕である。昼間から麻雀のサーヴィスや御馳走をする。近くの料理屋へ交渉にゆく。芸者共が、シャチョウハーンと、ことこと下駄を鳴らしてはいって来ても、丁寧に扱わなければならない。彼女等は、私よりも会社へ奉仕しているらしい。
 所属の部所が私には与えられていなかったから、タイピストは私に、コッピーのよみあわせをしてくれと頼みに来るし、営業の人は、使い走りを命令し、会計は、銀行ゆきをしてくれという。毎日のいそがしさは、五時から六時までもつづく。労働基準法など、てんで問題にされていないから、勿論残業手当など出る筈がない。
 さして私は疲れを感じないでいた。ひっきりなしに行われる肉体の労働で、私自身の存在の価値や生き方を考えてみる余裕は、戦時中より更になかった。これは結構なことであった。人との挨拶の仕方や、電話の応答は二三日でのみこんでしまえたから、緊張して気遣いで疲れることはなかった。それに叱られても、他の女の子達のように、めそめそ泣くことは出来なかった。上役からも下っ端からも私はかわいがってもらえた。すれていなくて、ハイハイと云って何でもする。私は別に心から、彼等を敬愛し、昔気質の旦那への忠実をもって働いたわけではなかったが、私の内面を見事にカヴァーしてしまうこと位、その時はなんなくやれたのである。
 会社がひけると、仲間の店員と、うどんやおでんを食べに行ったり、映画をみたりした。家へかえると、家族とあまり口ききもせずに寐てしまった。
 毎日、非常にたのしいのではなかったが、とにかく月給をもらうための生活は、一つのはりがないでもなかった。千五百円の初給であった。私はそれで、煙草代も、コーヒ代も、絵の本をかったり、芝居をみたりすることも十分に出来た。煙草は、小使いのおばさんのところでよく喫んだ。彼女も大の愛煙家であったから。秘書の老嬢に発見されたら、勿論説諭かクビであったろうけれど、幸い、それ程多く喫まないでいられたから無事であった。丸坊主にした若い男の子達は、よく私に煙草をたかりに来た。彼等はガリ版の猥らな本を私に貸してくれたり、そんな話独特の冗談や陰語を教えてくれたりした。私の想像する恋愛と彼等の抱いている恋愛感情とのひらきに戸惑いすることもあった。そして、わずかな失望と、それでいて彼等に対する興味とを持った。しかし、私は、会社に拘束されており今までのように事件を起すことは不可能であった。最も窮屈な生活の中で、私は窮屈さに馴れ、麻痺され、諦めのようなものを得た。感情を押し殺すことを平気で行うことに、別だん、矛盾だとも思えなくなり、行動することもだんだん打算的になった。
 三月になって、私達の学年は卒業した。その時、私の卒業証書も家に託送された。その事実を知ったのは、例の国語の女教師の口からであり、母は証書を私に披露しなかった。そのことで、級友達はすっかり私とはなれてしまった。他に、家庭の事情で退学した生徒がいたが、私より後のことであったのに免状はもらえなかったということが、余計に問題になったそうである。私は、紙切一枚が、それほど貴重なものだとその頃思っていなかったから、別段ほしいとねがっていたわけではない。かえって自分から退学したことに妙な誇に似たものを抱いていたから、自分の人格を無視された大人達の策略に腹立しくさえ思った。職員会議で問題になったそうである。しかし、私の父がかつて有名人であり、学校には寄附をしており、理事という席にいた関係上、校長の殆ど独断的な意見で私に証書が送られたのであった。このことは私を不愉快にした。しかし、すぐ忘れることが出来た。いそがしい毎日の仕事のおかげである。国語の教師は、私の居ない学校は張合いがないと云って辞職して故郷へかえってしまった。私は、学校や友達と全く絶縁された位置を、さみしいとも思わなかったし、後悔もしていなかった。
 物価高で、毎月のように月給は昇った。私は小さな陶器の灰皿を買ったりしてたのしんだ。女でありながら、御化粧したりしないことを小使いのおばさんが不審がった。
「ちっと、口紅でもぬんなはれ」
 私がよく働くのでとりわけ私をかばってくれる彼女はそう云った。私は、頭髪に電気をかけ、ぽおっと御化粧をはじめた。分家さんは、にたにたと私の顔をみながら笑った。彼はいつも口をななめにあけて大きな机にぼんやりすわっていた。彼は、私より以上に数学が出来なかった。てれくさそうに、ゆっくり算盤と指をつかって、昼飯のやき飯の代金を私に手渡したりした。彼は怒り
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