っぽく、怒鳴りつけることが度々あった。どもりで、唾液をそこらにまき散らす癖があった。
「わしのパイプ、パパパイプは」
 これは毎日必ずのように彼の口からとび出す用事であった。ライターもたばこもそうであった。私は、暇があると彼の様子を観察していた。パイプの置き場所を覚えていてそっと教えてあげた。教え方がはやすぎても気に入らなかった。彼の知合いの電話番号を暗記していて、――というのは、彼は決して自分で控えておくことをしなかった。――これは即座にこたえるようにしていた。女店員の中で一番彼の気質をしって彼の命令に動くことが出来たのは私一人であった。私は彼を大へん憎悪しながら彼の間抜けた表情に一種の愛着を感じていた。土曜日のひるなど、派手な着物をきて彼を訪ねてくる奥さんと食事に出かける姿を頬笑ましい気持で見ていた。彼のお叱りをうけるのは私が一番多かったけれどその暴君ぶりがかえって私には親しみやすく叱られながらも彼のためには何でもしてあげた。
 秘書と私は仲良く出来た。彼女は社長室でよく、キャッキャッと社長とふざけていたがひとたび社長室より出ると、大した威厳でもって、会計課長にも営業の重要人物にもどんどん命令し、年寄った彼等は表面へいこらしていた。老嬢のヒステリーはしばしば起った。太ったお尻をふりまわしながら怒り散らした。彼女の雑用は私にまわされていたので度々社長室へはいることが出来た私は、彼女の社長前の、甘ったれた言葉が滑稽に思われた。ドア一つのへだたりで巧みに自分の表情の動きから、音声に至るまですっかり変えることの出来る彼女をみているのは興味の一つであった。嫉妬やそしりはたえずくりかえされていた。それにまた、誰と誰とが仲が良すぎるとか、誰がひがんでいるとやらそんな小さなことが仕事の上にも影響して秘書から社長へ筒抜けであることや、社長がそんなことまでに干渉するということが馬鹿げているとさえ思われながら、そんなことが出世に大きなひびきがあることを知った。私は一番年少者であったし誰とも事件をまき起さないでいたけれど、後からはいってくる女の子達よりいつも末席におかれていた。それは、事務能力がなかったからである。簿記も算盤も出来なかった。タイプライターも打てず、布地をいじることも知らなかった。私は別に、後から追い抜いてゆく同僚に嫉妬しなかった。末席は一番多忙でありながら、これ以上おちるところがない安定感があった。いつまでたっても玄関脇の机と受付けの角で立ったり坐ったりしていた。来客者には評判がよかった。言葉が流暢であったからであろう。学校で演説したり、又幼い頃から、言葉の躾が喧しかったせいで、苦労しなくても、敬語を使うことが出来た。
 多忙の五カ月がすぎた。はじめてボーナスという大きな袋を社長から手渡され、両親や兄弟や、例の友達のお母さんに贈り物をした。お金をもらうことと、人に物を与えることの喜びが、このころの生活の張合いでもあったわけなのだ。
 そのうち、丸坊主の大岡少年が私にとりわけ親切にしてくれるのに気がついた。度々、お使いの行きかえりに偶然会ったり、夕立がすぎるまで他所の軒先で並んで一こと二こと喋ったりすることがあった。大岡少年は顔中吹出物だらけの田舎者であった。ある日、倉庫の地下室を他の少年達もまじえて整理をしていた。五時をまわっており、埃と湿気と布地の中のかびくさい臭いとの中で、品物をまとめたり片附けたり、藁くずを一ぱいかぶりながら働いていた。大岡少年は梯子の上にのっかり、私は下から彼の手へ、小さな包みを手渡していた。彼の両脚に濃い毛がまいており、ぞうりをつっかけた素足の指の爪は真くろに垢がたまっていた。
 よいしょ。よいしょ。と云いながら、その呼吸とかけ声が、私の頭上にいきおいよく感じるのを、半分うっとりしながらきいていた。彼のランニングシャツはうすねずみ色に汗と垢がしみついており、体を伸ばす度に、たくましい皮膚と脊柱がみえた。荷物の受け渡しに手先がふれ合った。ガサガサした固い指で、やはり爪垢が一ぱいたまっていた。
 最後の小包を手渡す時、私はこれでおしまいであることを告げながら、しばらく、彼の手先と荷物と自分の手先が動かない位置にあることを知った。私は、いきなりぱっと面映い気持を押えられないで無邪気に舌を出して手をはなした。彼はそれを、巧みに放り上げると、そこから、私の上へ飛び降りようとした。私は体をさけようともせず、彼の躍動的な瞬間のポーズにみとれた。どかっと、自分の肩に重みを知った時、彼の唇と私の唇は反動的にわずかふれ合った。私は急にいらだたしい気がして五六歩小走りして他の少年達のところへ来た。
「もうわたしんとこ済んだの。手伝ったげる」
 彼等の間にはいって、私は荷物の整理をはじめた。大岡少年は、首にぶらさげた手拭で顔をふ
前へ 次へ
全34ページ中27ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久坂 葉子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング