きふきやって来て私と同様黙って仕事の手伝いを始めた。
 そのことがあってから、何かしら彼と喋る時は意識してしまい、他の誰かが私達の動作を見守っていないかという懸念をたえず心の中に置いていた。私は彼のたくましい体にすくなからずひかれていた。時々、彼と退社後、闇市のうすぐらい電燈の下で、お好み焼を食べたり、油っこいうどんを汗かきながらすすったりした。田舎出の少年は、おそるべき健啖ぶりであった。彼は、冷いのみものや、氷菓子を好まなかった。鉄板にじいじい音をたてて焼かれる丸いかたまりを、卵起しのような四角いブリキで――こてというそうだが――大胆に切り目をつけて、ぱくつく彼の口もとを私ははしゃいだ気持で眺めていた。
 大岡少年と私のことは噂にのぼらなかった。彼は人の注目の的になるはずがない位みにくい容貌であり滑稽なほど間抜けてもいた。皆がさわぎたてるのは、復員して帰店した二十七八の社員や、ふっくらした赤ら顔の少年達であったから。私は、彼が目上の人に叱られている時は、きいていないふりをしていた。彼は毎日何回となく、気がきかん、とあっちこっちから怒鳴られていた。私は出来るだけ彼をかばって、一度に三つ四つも仕事を頼まれている時は、自分の部所をはなれてまで手伝った。そのために、私も叱られてしまうこともあった。ポケットに手をつっこんで、ぽやっと事務所の隅々を眺めている分家氏は、時々私と大岡少年の口をきいているさまに、ゆがんだ口許をさらにひんまげて、おかしな笑いを洩らした。私は、分家氏と目が会うと、必ず、はじらいの微笑をつくり上げて、愛想よく首をかしげた。彼は私を気に入っていた。
 街に、うすいウールや毛糸が出はじめる頃、突然、大岡少年は東京の支店へ転勤させられることになった。別に取立てて理由はなく、半年位たてば、交代に、三つの支店へ派遣されることになっていた。彼は、さみしそうでもなく、一人一人の社中の人に挨拶をした。私の前でも、真面目な顔でお辞儀をし、小さな包みを机の下の私の両手の上にのっけた。私が挨拶される一番しまいの者であったから彼はさっさと部屋を出ていった。小さな包みは、記念品とかいた新聞紙につつまれた外国製の口紅であった。外観と中身とが、とっ拍子もなくかけはなれているのに、私は微笑みをもらした。何か字をかいたものがないかとたんねんに新聞紙をひろげなおしてみたが、四角いペンの字で、記念品とかいただけしかみあたらなかった。折紙大の新聞紙の切れはしは、ありふれた証券日報のふるいのであり何の暗示めいた文字も見当らなかった。口紅は金色のケースにはいっていた。闇屋から買ったらしく高価なアメリカ製であったが、底を右にまわすと、びっくりするような牡丹色があらわれた。私は思わずふき出すと同時に、軽い失望を感じた。この色は、自分の好みと凡そはなれたものであった。然し、彼は、金色のケースと牡丹色とを好んでいるように思った。それは、あのお好み焼の重量感と似通っていた。彼はきっと多くの種類の中から特にこの色を選んだにちがいなかった。私は、彼の心根を嬉しく受け取ることが出来た。
 帰宅の折、私はその色を口の上に丹念にぬった。私の唇は、ぎらぎらとどぎつく光った。そして小使い室で荷物をまとめている大岡少年のところへもう一度会いに行った。
「さっき、ありがとう。お元気でね。出張してかえって来ることが度々あるわよ。その時、又会いましょうね。私、何にもあげるものないし、月給日が明後日で、お財布もさみしいのよ。だけど、これ、あげるわ」
 私は、ハンドバッグの中の小さな鏡を彼に手渡した。出張すると、髪の毛をのばしてよい命令が降りるのである。彼は、素直に受けとって、簡単に、サイナラと云った。私の顔をみながら、口紅の色に気がついたのやらつかないのやら、無感動無表情であった。
 帰り途。私は、ふっとかなしいものが胸の奥底から湧き上ってくるのを感じた。
 翌日から、又いつもの通り、朝早く出勤して掃除をした。彼の贈り物の口紅は、どうしてもつける気がしなかった。日本製の安物の目立たない赤さの方を私は好んでいた。
 会社の生活は毎日きまったようなことばかりであった。仕事にすっかり馴れてしまうとそのうちにやっぱり自分を強く意識しはじめるようになって来た。私は時々机に倚ったままぼんやり考えることをはじめた。その都度叱られながら、だんだん来客や電話に怠慢になって来た。会計課の老人が、お札を三度も四度も数え直すことや、一銭でも神経を使って、ビリビリ叱言を言ったり、不用になった紙切れまできちんとピンでとめ、しまいこんでいることや、営業課の若い人達が、耳に鉛筆をはさんで、朝から晩まで算盤をがちゃがちゃ云わせたり、カーボン紙を四五枚はさんで、ガリガリ鳴らして積出しの書類に数字をかきこんだりすることや、輸出部
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