ではサンプルのコストをタイプで幾部も打ちこんだり、又、秘書の老嬢は、要領よく社長の車を私用に使ったり、重役は、昔からの習慣で、もみ手とぺこぺこ腰をさげることを誰に対してもやってみせたり、若い女の子はお化粧の方法と俳優の好き嫌いを暇があれば喋り合っていることや、少年達は、一番いそがしく自転車使いや労働をしながらその合間に、ターザンや西部劇の真似をやったり、それに社長は、時々、昼間っから、妾宅へ出かけて行ったり――これは秘書がのこらず知っており、私は特別の恩沢をうけて拝聴させられるのである――名前をきいても黙っている女の人から電話がきたり……。
こんなことの毎日が、私にとって大へんな興味であったのに、だんだんそれは何でもないことになって来て、ただ一人だけ、分家氏の一挙手一投足が私の注意をひいていた。
ある夕方、彼が白痴のような口許に、火のついていない煙草をくわえてぶらぶら街を歩いているのに出遇った。ポケットにいつも手をつっこんでいた。両脚を外側へ出し、お腹をつき出して歩く癖があった。遠くからすぐに彼だと判明した。私は、会社から帰りであったので、一応髪の毛をときなおし、少し化粧をしていた。ややして彼は私に気がついた。
「かえりか、会社終ったんか」
横柄に問うた。私は笑ってうなずいた。
「ついてこい」
彼は命じた。私は二三歩後を女中のような気持になって大人しく従った。露地を二つ三つまがって奥まった格子戸の家の前へ来た。彼は、さっさと靴をぬいで――決して紐をとくことをしなかった。――座敷の方へあがった。私は躊躇して玄関でたっていた。
「ふみ、ふみ居るか……」
頭髪をきれいにアップにゆいあげた若い女中が、べたべたとお白粉をぬりたくった顔を廊下からひょいと出し、分家氏と私とに愛想のよい笑いを送った。
「酒、してくれ……あがれ」
私と彼女に一度に彼は命令した。私はうすぐろくなったサンダルを隅っこの方にならべると女中の招じる部屋、つまり彼がどっかりあぐらをかいている六畳の青畳の上へ近よった。
「はいってこんか」
私は真中の朱塗りの机の手前にちんまりすわった。
「煙草吸うんやろ、わかっとる」
彼は、白いセロファンの下に、くっきり赤い丸のある煙草の箱をポケットから放り出した。私は一本つまんで口にくわえた。
「ふん」
彼は、笑いとも溜息ともつかないものをはくと、わざわざ自分のライターを私の顔に近づけてくれた。夕飯にはまだ少しはやかったので、御客は他に誰もいなかった。バラック立の安ぶしんの天井から、白い障子ばりの電燈の笠が目立ってうつくしかった。とっくりと、小さな鉢とお箸がまもなく運ばれた。先刻の女中が、彼と私とにお酒をついだ。
「おいふみ。これに云うなよ」
彼は親指をみせた。社長のことだと感知した。
「おまえも黙っとれ」
私にむかって上目使いに命令した。私は私と彼が差向いで御酒をのんでいる様子がとてつもなくおかしいものに思われてにやにやしていた。彼は多くは喋らなかった。私も黙って後から運ばれて来たおすしを食べた。ほんのり酔いを感じた。
「分家さん、何で御馳走してくれはんの」
私は、わざと大阪弁を使って問うた。
「ふふん」
彼は満足げに笑っていた。彼のとろんとした目がだんだん鋭くすわって来た。外がうすぐらくなり電気が点いた。
「おおきにごちそうさん。私、かえらしてもらいます」
私は両手をついて会釈した。
「かえらさへんぞ」
彼は私をきっと睨めつけた。そうしていきなり私の手を机の上でひっぱった。おちょくとお箸がころがった。
それから、あの青や黄や赤のごてごてにぬられた表紙絵の大衆雑誌の小説と同じような情景が私の傍で、しかも私もふくみこんで行われようとした。私は抵抗した。朱塗の机はがたがたと隅の方へ押しやられていた。
「分家さん、はなして、はなしてよ」
私は小声でそう云った。木綿の洋服の脇のスナップが音をたててはずれた。
「いやらしいひと、やめて」
私は精一ぱいの力を出して彼の腕をつかみ彼の上体を押しのけた。そんなことが二三度くりかえされた。急に彼はおじけたように部屋の隅にあおむけにころがった。
「ふん、大岡とやりおったくせに、ちゃんと知っとるぞ」
私はいきなりむらむらと怒りがこみあげた。
「分家さん、冗談にもそんなこと、いやな」
気弱になった彼に私はがみがみと云った。
「ふん」
彼は例の口許から例の発音をした。
「分家さん、さ、かえりましょう。みっともない。まだうすあかるいしするのに。それに、ええ奥さんがおってやないの」
私は、彼を精神的変質者であろうと、もともと思っていた。私は彼の手をひっぱって起した。彼は私のするままにしていた。私は、ワイシャツの釦をかけ、ネクタイを結びなおしてあげた。彼の奥さんは気性の勝っ
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