手であった。
彼女は学期の終りに、辞職の挨拶をして九州へかえって行った。
学期があらたまると殊更私はいそがしくなった。そのまま幹事を任命され、いよいよ工場へ出陣することとなった。誓書、といういさましい文章を講堂でよみあげた。とにかくいそがしいことが、私の自分勝手ななやみのはけ口にもなり、自然、なやみもわすれてしまうようにもなったのではあったが、度々神戸も空襲され、すぐ近所まで焼け跡になり、死傷者が続出すると、私の心の隅に、ふたたび死ということが、鮮明に刻みこまれるようになった。私は真白の数珠を右腕につけた。死がおそろしいのではなかった。死を常に意識するようになり生きているということに何らかの意味を持たせたいと思った。私はこの頃、自分は罪を犯したものである、と思うようになった。それは瑣細な罪であったかも知れないが、小さな胸にはそれだけのことでも大きな負担であったのだ。私は、自分を罰さなければならないと思った。そして、死の後の世界をはっきりと感じるようになった。私には、地獄極楽があるということは人間にとって大へんな不幸だと思った。生きている間、悪事を働いても、死んでから位、苦しみたくないようになりたいものだと考えた。それは虫のよすぎる話である。私は毎夜、火の中にたっている自分や、針の山をあるいている自分の夢をみた。これは苦悩であり、私の罪への罰則かもしれないとも思った。私は、仏への信仰によって救われたいと思った。
空襲がひどくなり、父母や姉や弟達は、すっかり神戸へ引揚げて来た。何故なら、誰か一人家族が死ぬようなことになるなら、一しょに居り度いと考えたのであろう。一時でも、顔を見合わせている方が安心だと姉は云った。私は毎朝早く起き、水をかぶり、南無阿弥陀仏を唱えた。大乗の道は私には最初からあまりに苦難であったから結局私は称号によって救われることをのぞんだ。くるしみたくはない。これは当然考えられるべきことであった。
電車に乗って工場へゆく、工場は航空機の部分品をつくるところであった。私達はそこで手先の仕事をした。豆粕や高梁のはいった弁当や糸のひいたパンをたべた。空襲警報がなると、十分間走って山の壕まで行った。五月のよく晴れた日、工場地帯を爆撃された。山の壕でもかなりひどいショックを受けた。私は壕から十米もはなれた小さな神社の社務所でラジオをきいて、メガホンで報知していた。しかし、頭上に爆撃をうけているのだから報知する必要はないのである。それにすぐラジオは切れてしまった。主任教師は大きな木にかじりついてふるえていた。あの恐しく強がりな彼がまあ何と不恰好なと、もう一人の報道係と苦笑した。しかしその女の子も恐しいと云って壕へかけて行った。私は仕方なく、ガラスがふきとんで危いので、草原の庭へ出て、寐ころんで本をよみ出した。私には、空襲や爆撃は恐しくはなく、それより自分の罪に対する罰の方が恐しかったのである。私はたしか尾崎紅葉の小説をよんでいた。「二人女房」だったと思う。小説をよんでいる間私は夢中にその作品にとびこんでいた。私はかなり長い間であったろうか、それをひとりよんでいた。空襲はおさまり、時々、破裂音がお腹の皮をよじり、生徒の泣き声がしていた。私は、ふと傍に泥のついた軍靴を発見した。主任教師である。私の下から見上げた視線と、彼の黒ぶちの眼鏡越しに光る視線がぶちあたった。いきなり彼は私の本を足でけった。私はかっとして立ち上り、教師をにらみつけた。
「何たることだ、職務を忘れて小説をよんどるとは……」
私は本を拾おうとした。
「きいているのか」
続く怒号。ふと木の間よりみれば、生徒は整然と並んでこちらをみている。私は仕方なく詫びた。詫びることは簡単であった。教師は本を自ら拾い、その題字をみて更にぶるぶる怒った。
「こんな本をよんでいいと思うのか……」
その本は彼の手に固く持たれ、返してくれなかった。私は、自分の場所へ戻って、生徒の人数を数え、報告した。
工場も被害をうけた。鉄道も三本ともストップしてしまった。私は、四里の道のりを、線路づたいに歩いてかえった。
翌日から工場は仕事がなかった。電気がつかないし、仕事の原料がもう他の工場から送ってこないのであった。それに、毎日空襲で山へ避難せねばならなかったから、殊更、何をしに工場へ通うのやらわからなかった。毎日、通勤の生徒の数が減って行った。丁度、その頃、学校の建物の大半も焼けてしまっていた。私達は交替で焼跡整理に学校へ行った。赤くなった壁や釘のささった焼板や、ガラスの溶けたのをよりわけてその後を畠にした。極度の肉体的な労働は、もうその頃には、さほど苦にはならなかったが、働くことが無駄であるような気がした。何故なら、もうみんな死ぬ日が近づいているのにと考えたからだ。
六月の夜半
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