まるで捨ててしまえという自分以外の力。戦争や、その影響をうけた教育など。耳にきこえるもの、言葉、目でみるもの、文字。それらが、皆私の反対の位置であり、私を苦しめた。私はそこからうまれたひどい虚脱状態の後、私一個の生命に対して愛やあわれや深い意味ある感動を、全く失ってしまうことが、かえって、私の生命をひっぱっていてくれるように思えばよいのだと考えなおした。

     第五章

 年があらたまって、上級生は次々と動員されて出て行った。三学期に新しい国語の教師をむかえた。女の独身の情熱家であった。私は彼女の浅黒い粘り強い皮膚に異様な魅力を感じた。彼女は頭髪を一まとめにして後で束ね、眉間にいつも皺をよせ、なまりのある語調で(九州人であることはじきにその言葉でわかったのである)高村光太郎の詩を朗読した。その詩は九軍神に捧げられた勇しい詩であった。
 彼女の手に触れたいと思っていた私は、ある授業時間の始まる前、故意に出席簿を先に持って来ており、それを教壇のところにたっている彼女の前へうやうやしく持って出た。
「ああ、探したのですよ、教員室にないかと……」
「失礼しました。ちょっとしらべ度いことがありましたので」
 私は細長い形のうすい出席簿を彼女の手の上にのせた。素早く右手をのばして彼女の指先にふれてみた。何気なく。しかし、その瞬間、非常につめたいその指先の感触が、私の手から胸の方へいきおいよく走った。私は一礼すると座席についた。彼女は栄養が足らないのだ。一人故郷をはなれて自炊しているんだから。私はそんな空想をしながら彼女の激烈な言葉や、黒板にチョークをたたきつけるようにしてかかれた大きな文字を、心に沁みこませた。しかしその内容にはあまり興味はなかった。
 彼女と懇意になりたく思いながらその機会をねらっていた。ある朝、私は登校する時、偶然彼女と並ぶようになった。彼女は思ったより背が低く、しかも胴長であった。紺色のもんぺの膝のところに四角い継ぎがしてあった。小さい縫目であった。私のもんぺの膝のところにもつぎがあたっていた。茶色のもんぺに紺色の布が黒い大きなずぶずぶした縫目であてがわれてあり、ところどころがういたりつれたりしていた。
「あなた、おもしろいね、このつぎ」
 語尾をいちいちはっきり区切って彼女はくつくつと笑った。私は、はあ、とつぶやいた。
「ああ、さむいね、やっぱりさむいね」
 道が大きくカーヴしたところで、北っ風にぶつかりながら、彼女は元気よくそう云った。私は又、はあ、と云った。何も云う事がなかった。
 次の機会、それは路上であった。突然、空襲警報がなり、道の防空壕に私と彼女は、警防団の人達の命令で他の通行客と押づめになりながらいそいではいった。私は彼女の手と握り合っていた。彼女の呼吸が近くできこえ乾草のようなにおいを感じた。
「故郷はいいよ。松原があって、しろおい砂浜があるの。田園があって、森や鎮守様や。あなた、都会っ子ねえ、そうでしょう」
 私は、私も田舎育ちであり、そこも又、白砂だったことを告げた。
「ああそう。たび、したいねえ」
 天井にぶつかりそうになりながら、頭をくっつけ合わせて小声で喋った。彼女は、私に遊びに来るようにと告げた。そして、小さな手帖の紙に、地図と番地とをしるして私の手に握らせた。私は、明日の日曜日は作業のない日だから伺いますと云った。解除になって、私と彼女は壕の上で別れた。
 翌朝、私はにぎり飯や飴玉を持って彼女の下宿先へ訪問した。彼女は縁先で、梅の花を竹筒にさしていた。彼女の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]し方は乱暴で、三本の梅の枝がつったっていた。私は苦笑した。彼女は旅行記念の手帖をみせてくれた。俳句や和歌や淡墨の絵があった。ひるまで、私と彼女は絵をかいた。彼女は般若の面を荒々しく画いて私にくれた。私は観音のプロフィールと梅の木とを、半折に配置してやはり墨だけでかき、彼女に捧げた。
「うれしいね。私は……。私、学年があらたまると故郷へかえるの、時々眺めてあなたを思い出すの」
 私は、ぜひ神戸に居てほしいとは懇願しかねた。彼女はやはり肉親の許へ帰るのが当然であり、私がひきとめても仕方ないことであった。それに、教師は教授するのではなく、共に工場で働くためのものでしかなかったからだ。
「私、神や仏を信じてない。私、自分を信じているの」
 近くの山へ散歩した時、ふっと彼女はそう云った。
「唯、寺や仏像が好きだけ。あなた、仏教信者? 教員室で噂きいた。……」
「何もかもわからなくなってしまって……わからないままにかえって強くなったみたい。わたし、数珠を捨てたの……」
「自信を持つことね。自信をもつことよね」
 彼女は私の手をにぎりしめた。それはごつごつした男のような
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