で、一週間欠席届を出して親達のいる小さな島へ旅立つことにした。女中は心配だと云った。私はふりきって、兄には無断のまま朝早く弁当と防空鞄をぶらさげて電車にのった。田舎まわりの電車に、二三度乗換えなければならなかった。しかも連絡しておらず、一時間近くも待合すこともあった。買出しの人で電車はぎっしりつまっており、ドアにぴったり胸を押しつけられたまま、百姓女の髪の毛のむれた臭いや、生臭い着物の臭気で呼吸するのも不愉快な状態を三時間もつづけねばならなかった。目を閉じて私はドアの横のたての手すりに手をかけていた。うつらうつらしていた時、私はふと自分の手の上に冷やっとした感触を瞬間的に感じ、つづいて又、その温度がだんだん暖まってゆきながら、強くかたいように感じて来た。私はうすく目を開けた。手であった。男の手であった。ごつごつした大きな黒い手で、私の手の上にしっかりその手は重ねられていた。私はその手から胸へ上体へと目を移し顔まで来た。戦闘帽をかぶった工員風の若い男であった。私は自分の手をその手の中から脱出させることを試みた。すると更に強い抵抗をもって握りしめられた。私はおそろしくなった。けれどもそのままじっとしていなけれはならなかった。私はその感触の中から次第に快いものを感じるようになった。私はふたたび目を閉じた。私は上体をその男の反対側にねじって手だけを彼の方にさし出しているような恰好で、次の乗換えの駅まで来た。その男も降りて何の感傷もなくさっさと違ったホームへ階段を降りて行った。
 小さな箱のガタガタの電車にまたのりかえて、今度はポンポン蒸気船に二時間近くゆられた。島や岬や入江の間を、油をながして船はすすんでゆく。都会風のたった一人の娘っ子を、田舎の学生や男達はじろじろとみる。私は巾一米半位の上甲板に寐ころんで、空と雲と風のにおいにひたっていた。のどかな秋の夕ぐれであり、時折、ぴしゃっとしぶきのあがるのをみながら、孤独だということのさみしさを一人前に知ったような心になって、頬に涙をつたわせたりした。私は両手をにぎりしめた。先刻の男の手が頭の中に蜘蛛のようにはびこっていた。私は急に不潔なものにふれたような気持になって、水の面へ精一杯はげしい唾をはいた。白いあぶくは船の後へ流れて行った。
 あたりがまっ暗になってしまった頃、こわれかかった汽笛が鳴った。目の前の島の船着場に小さなあかりがみえた。村の子供達が、手をふっている姿がだんだん大きくなって私を不思議そうにみる表情まではっきりわかって来た。私は肩に鞄をぶらさげて、ピチャピチャぬれている船着場にとび降りた。八十軒しかない村なので、姉達のところを子供にきくとすぐに私が下娘であることを知り、小声で、スミチャーンと呼んで私の荷物を持ち先立って案内してくれた。みんな姉の友達なのである。一人の十すぎの娘は、私の着ふるした洋服を仕立て直して着ていた。トシチャンが仕立ててくれたの。姉の名を親しげによんでいた。
 父は私の突然の来訪を不審がり何かかんかと質問を発した。母は、私がきっと肉親の情愛を慕って来たのだろうと勝手な解釈をしてよろこんだ。乳母は一人旅の私を驚いた。姉と弟は私を唯いらっしゃいと迎えた。
 私は自分の行動を反省してみた。私は責任ある自分の学校での位置をかんがえた。しかし、私は自分の感情に従うことをあたり前なのだと一時的な結論を下した。白米と魚のさしみを食べて私は旅の疲れにぐっすり眠り込んだ。
 翌朝目をさました私はこれからどうしようとも思わず、姉と弟と村の子供と散歩をした。私の中に、もう仏教的な安心感もなく、恋を恋したあの戦死者への想いも失せていた。私は宙にういているような自分に叱責を与えることもしなかった。戦争だとか、必勝の信念だとか、そんなものも私の中に存在しなかった。
 てんま船にのって向岸の海岸まで遊びに出た。姉は巧みに艫をこいで田舎の歌をうたった。私は姉や弟や父母に自分の静かでない心境が現れることをおそれ、ひたかくしにかくして頬笑んでいた。しかし、この島にいても私の気持は落つくことが出来なかった。肉親への虚偽の笑いは苦行であった。私は学校が五日間休みだからと云う理由にしていたのだが、三日目には帰ると云い出し、母と二人で神戸へ戻って来た。母はその翌々日に島へむかった。私は久しぶりで登校し、又もや主任教師に二時間たたされて説諭をたまわった。私は幹事をやめさせてくれと懇願した。然しそれはきき入れてもらえなかった。私はその日から、号令や伝達や作業にいそしまねばならなかった。粗食と疲労で肉体はげっそりしてしまい、その上、戦争のために、国家のためにという奉仕的な気持をすっかり失っていたことが余計体に影響し、私は作業中に度々卒中を起して休養室で寐なければならなかった。私の生命に対する強い愛着を、
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