私は二三度数会へゆき、マザーと話をした。公教要理は滑稽だったし、神父の説教は矛盾していた。戦争中の宗教は政府からの弾圧があるのか云い度くないことを云わねばならず、云い度いことを黙っておらねばならない教会の立場であったのかもしれない。その頃だったか、もっとそれ以後だったかはっきりしないが、教会で選挙運動があった。神父が説教の半ばに、推薦演説をはじめたのである。これには全く顔負けしてしまった。私は、カトリックの教理をつかまないまでに教会行はやめてしまった。しかし、仏教の信仰もまた徹底しておらず、碧巌録や、歎異抄や、神の話をあれこれよんだが、勿論、解らないままであった。又精神修養の講話もききに行った。蟻や羽虫を気合いで仮死状態にすることも覚え、運動場で実演をみせたりした。
 疎開する者が増し、組の人員も目立って減って行った。夏すぎになると戦争は悪化してゆき、不安なサイレンを度々きかなければならなかった。授業は殆どと切れ、きまった時間にきまった仕事を仕上げるのが無理になって来た。
 ある日、警報下のことである。私は情報部員であったから、ラジオの傍で筆記していた。その日に限って、それがどんな動機もないのに私は自分の惨死姿を頭のすみに、うろうろ浮ばせた。三四年前、死ということをはじめて知った時、私は別に深刻にかんがえるだけの知識を持っていなかったし、自分が死に直面しているとは勿論思わないでいたのだが、この時は、何かせっぱつまったものを感じた。ラジオの報道はさっぱり耳にはいらない。決して死への恐怖ではない。唯、私が死ぬ、私は死ぬ、という三四年前よりもっと具体的な、死に対する衝動であった。私はじっとしておられない。私は死から逃れようとする本能的な感情が、突然、紙や鉛筆をうっちゃって表へとびだす行動に現われた。私は死に度くない。私は生きておりたい。死がおそろしいのではない。けれど私は自分の命を愛しているのだ。生徒達は壕にはいっていた。私は人の居ない運動場を走りぬけ山の方へ突進して行った。別に、山の方は弾丸が来ないからというような常識的な考えは持っていなかった。唯、じっとしておられない感情で走り出したのだ。高い山の崖下へ来た。走りつづけることは肉体的に不可能であった。笹むらへ身を投じた。私は眼を閉じてうつぶせになったまま、走り度い精神と、走ることが出来ない肉体との交錯を感じた。私は、人間が戦争のために不自然な死に方をすることに対して別に何も感じてはいなかった。唯、一人自分の死に対してだけ思いつめた。
 何時間そうやっていたのだろうか。私は考えながらうとうと眠りだした。私は手足を太い縄でしばられるゆめをみた。私は眠りながら数珠をひっぱった。手くびからはずれないで細いより糸はぷつんと切れた。こまかい玉がくさむらにころがった。私はそれがゆめなのか事実なのか判断つかぬままにうすらさむい夕刻まで気づかずにいた。
 学校では大騒ぎになったらしい。人員点呼をせねばならない人が居なくなったのだからすぐに捜索がはじめられたのだろう。私の名を呼ぶ声がきこえた。私はそれでもじっとしていた。崖下に女の体操の教師の姿がみえた。彼女は私をみつけた。私の防壁頭巾は真黒で朱色のひもがついているので殊に目立つのだった。
「まあ、どうしたというんです、一体」
 私は何も云わずに彼女の後に従った。
 私はその女教師から主任の手へまわされた。主任は、出っ歯のスパルタ式教育と自称するいかめしい男の歴史の教師であった。彼は、私の責任や義務を追求した。私はだまったまま彼の肩越しに暗くなる窓外をみていた。彼はいらいらして来て、矢継早に質問を浴びせかけた。私は更に無言のまま、叱られているとさえ思われない状態でいた。私は、右手と左手とを前で握りしめた。数珠はなかった。私ははっとした。
「その姿勢は何だ」
 彼は私の両手をつかみ両脚の側面へ、まっすぐ伸ばさせた。私は直立したまま口を開こうとしなかった。いきなり頬に強い刺戟を感じた。私はよろよろとなり思わず膝をついた。
「たてれ」
 私はたたなかった。痛いという表情をして涙までこぼしてみせた。説諭することはかまわないが、生徒に手をふれてはいけないという学校の規則があった。彼は反則して私を撲ったのだった。彼はそれに気がついたらしく五分位した時、いやどうも、と口の中でもぞもぞいうなり扉をガシャンとしめて出て行った。私はすぐに部屋をとび出して家へかえった。
 父の喘息に転地をすすめる人がいて一週間程前から、姉達の島へ父は母と共に養生に出かけて留守であり、女中が一人、広い家を守っていた。兄と二人、うすぐらい電灯の下で沈黙のまま食事をした。私は、その翌日から登校する気になれず、二三日無届けで家にごろごろしていたが、学校から調べが来るという情報が生徒よりはいったの
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