のにギイーッとなるたんすがあり、その中に紺地にうさぎの絵のついた御召があった。母は時折それを着た。たしか冬頃着ていたようだから――というのは、その上に黒い羽織をはおると兎が一匹みえなくなるのを悲しく思っていたからである――袷だったのだろうか、それを私は大へん好んでいた。そうして、「ボビが大人になったら、そのおめしものいただくのよ」
 と姉や乳母に度々宣言した。母も、約束してくれていた。ところがいつの間にか、その着物がなくなってしまった。母はそれを着ないのである。そっと、ギイーツとたんすをあけてみたけれど、中にはいっていない。或日、私は母にたずねてみた。
「あああの御召もの、あれは、カザリイン先生がアメリカへ帰られる時さしあげたの」
 母は何気なくそう云った。カザリイン先生は幼稚園の園長さんだった。私は青い目と、うぶ毛の密生した赤白い皮膚を、その時非常に嫌悪していた。で、自分の最愛の着物を、きらいな先生にあげてしまった母をうらめしく思い、又ここで、約束を破った大人を、心の底から憎んだのである。然し、この母は、私の綴り方や、ピアノの音を好んでくれた。そして、母を好きだと思う時が、全くないものでもなかった。母は花が好きであったから、私を連れて、御客様をおまねきしたりする時は、殊に遠い温室のある花屋まで買いに行った。私は、むっとする強い花の香りに酔い心地になって、いろんな幻想を思い起した。そんな時、母は必ず、
「ボビ、どのお花好き」
 とたずね、私の撰んだ花を必ず買ってくれるのだ。私は、その時母をいい人だと思った。お花の束をもって帰り、きりこのガラスの瓶や、まがりくねった焼物の壺にその花をいれるのを傍でみていた。はさみをパチンパチンとならすのが、私の心を踊らせた。母は余った花を小さく切りそろえて、私に与えた。私はそれを、姉と二人の勉強部屋――私達は人形や本や切り抜きの絵のはってある西向の部屋を斯う呼んでいた――に飾った。

 その頃、私は冬になるとよく病気をした。廊下続きのおはなれには、常に誰か兄弟が寐ていたけれど、私のは一番長かったようだ。クリスマスの晩、ホテルの家族会へ、毎年招かれてゆくならわしになっていたのだが、私はその一週間前あたりから床につくことがさだめられているように、風邪や肺炎をおこした。クリスマスのために、外套から靴まで新調してもらうのだったけれど、それをきちんと枕許に置いて、
「もうじきクリスマスですよ、もうじきよくなりますよ」
 と、年とった医者のさしだす苦い薬をのまされた。ピンクのひらひらのついた洋服が、陰気な消毒くさい六畳の間にぶらさがっていたことをはっきり思い出す。そのピンクの年は、春まで寐ていたのだった。私の枕許には折紙でこしらえたくす玉が一ぱい天井からぶらさがっており、時折、その長い垂れさがった紙ひもが頬をなでた。私は又、寐ている間、看護婦の唄う流行歌を覚えた。母は、子供の前で絶対に歌ってならないと命じていたが、吸入器の掃除をしたり、枕許の整理をする時、自然にその白い上衣をきている彼女の口から、
「銀座の柳の下で……」
 がとび出すのだった。私は、すぐそれを覚えて、何かしら切ない気持にもなってみた。

 病気をしていない時は、相変らずの英雄生活がつづいた。支那事変や関西風水害が起った頃である。凡そ、自分以外のことには無関心であったから、その頃の子供達は兵隊さんや従軍看護婦に憧れはじめたものだが、私は一向に興味がなかった。日の丸の旗をかいて、停車場や波止場に送りに行ったこともあるが、戦争がきらいだということもなく、善悪の判断などわかる筈もなかった。――相変らず私は、ある種のスリルを満喫していた。
 そのうちに、踊りの稽古が、あまり派手好みでない母に、少々面倒にもなったのか、姉の脚も、すっかり人目にわからなくなったので、共々、私までやめさせられてしまった。ピアノは、やさしいソナタ位弾けるようになっていた。別に努力もせず気まぐれに弾いていた。
 しかし、ここにふたたび私の心はぴっしゃんこにつぶれてしまう時が来た。
 ある放課後、私は五人の女の児をひきつれて大きな御邸の前へ来た。庭にテニスコートがあり、そのあちら側にたくさんのけしの花が咲き乱れている。私はそれがほしくてたまらなかった。他の女の児達もほしがった。金網越しにそれを眺めていた。私は遂に決心して、ランドセルとおべんとう箱を、矢庭に道路へ投げすてると、金網を登りすばしこく越えはじめた。真剣な十の眼が、両手でしっかり金網をつかんだ間に並んでみえた。私は身がるに飛びこんだ。白いラインが殊更にくっきりと私の眼を射た。私は何か非常に重大な責務をあびているような感じがして、腰をかがめて走り出した。すぐに、けしのむらがりまで到達した。私は、紫や赤や白の花を、六本折った
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