画くことであった。父と共に南画を習いはじめ、仏画や風景をやたらにかきなぐりながら、そこに一つの宗教的な平静さを見出すことが出来た。しかし、数珠だけはなす気にならなかった。東洋的な感覚に魅かれて行った私は、ピアノを弾くことを止してしまった。人の作曲したものを、どんな感情で作ったかもわからずに、自分がそれを弾くことは馬鹿げているような気さえした。母に泣きつかれ、先生に懇願されたが、近所の人達の口がうるさいという理由にして、――鳴物禁止時代になっていた――その代り、お茶とお花とを絵と共に習いはじめた。お茶は性に合わず、同じことをくりかえしで縛られるのに嫌気がさし、お花は、その師匠は進歩的な人で、自分勝手に活けてみることをさせてくれたので、絵と共に長くつづいた。創作することは面白かった。盛物と云って、野菜や果物をもりあわせることは非常にたのしみなことであった。私は、山でひろった木の根や、石ころを並べたりして、毎日のように床の間のふんいきを変えた。
 戦争はいよいよはげしくなった。体の病弱な姉は休学して、三つ県を越した南の小さな島へ療養にゆき、つづいて弟も疎開したが私は居残って女学校へ通っていた。母は度々その島と往復し、魚や米を土産に持ってかえった。乳母は姉達についてその島へいったっきりであった。工場へ出勤している兄と、一人になった女中と、国民服をきて丸坊主になった父と、簡素な生活になっていた。ごたごたしたうちに進級し、私はひきつづき幹事を命令された。その上、家が学校の近所である理由から、学校を守るために帰宅した後でも警報が鳴れば登校し、たくさんの役合を仰せつかるようになり、自習する暇も、考える時さえ縮められていった。戦争、戦争、そのことが一時も頭をさらず絶えず神経がピリピリしていた。父は二三年前より喘息が発病し、彼岸の頃になると決ったように起り、戦争や会社の任務の影響でそれがだんだんひどくなって来ていた。――父はこの戦争に対して非常に悲観的であった。
 凡そ自分の感情を奔放に発揮することの出来ない時であり、女学生達は萎縮してしまっていた。私は少ない二三の友達と小説をよむことで小さな夢を持った。学校で小説を読むことは禁じられていたが、新聞紙でカバーし、休み時間や放課後ひそかによんだ。そして、恋愛ということに非常な関心を持ちはじめた。
 四月のまだうすら寒い頃であった。閑散とし
前へ 次へ
全67ページ中27ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久坂 葉子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング