らも頭をさげられたいのだ。
 ――御心配御無用よ。私はばらしやしませんよ――
 彼女は、仁科六郎の方をちらりとみた。そして、すこぶる優越的な気持になっていた。表で自動車のとまる音がした。瞬間、四人の間に、不気味な空気がわきあがった。
 ――阿難、すまない。がまんしてほしい――
 ――お杉はどんな表情をするかしら、今日という今日は、私に顔があがらないだろう――
 ――とうとうやって来た、南原杉子。どうにかうまくゆくだろう。しかし僕はびくびくなんだ――
 ――どんな方かしら、きれいな方らしいけど、夫が今まで私に黙っていた人。夫のまるで関心のない人にちがいないけど――
 ドアがあいた。
「待ってたよ。おそかったね。仁科君の奥さんも来てられるんだよ」
 蓬莱建介である。彼は誰よりもはやく、殆どドアがあいた時に、入口の方へちかよって行った。蓬莱和子の視線。のりだすように、こちらをみている着物の婦人。仁科六郎はうつむいている。南原杉子は、自動車を降りた途端、まるで阿難を葬っていたのだが、胸にはげしい鼓動を感じた。蓬莱建介は、奥の方へ背中をむけ、南原杉子を、ほんのしばらくかばってやっていた。彼の愛情である。
「さあ、はやく、はじめてるんだぜ」
 南原杉子は、蓬莱建介に、まず無言のうちに諒解したというまなぎしを与えて、正しい姿勢で奥へはいった。それまで、いつもの饒舌を忘れていた蓬莱和子は、たち上ると、
「お杉。何故、おそかったの、さあさ、六ちゃんの奥様よ」
 蓬莱和子は、夫の南原杉子に対する好意的な行為を、何か意味あるものととった。そして真珠の首飾りを無意識につかんだ。
「南原でございます」
 仁科たか子は、たち上ってしずかに会釈した。南原杉子は、仁科たか子をみなかった。そして傍の仁科六郎をもみなかった。
「南原女史、さあ」
 蓬莱建介は、シャンパンをいさましくぬいて、最初にカットグラスを彼女の手に渡した。彼女はそれを手にして、あいている椅子に腰かけた。それは、四人の視線をまっすぐにうける中央のソファであった。南原杉子の手は、かすかにふるえていた。蓬莱建介は、なみなみとシャンパンをつぎながら、注ぎ終えても、しばらくそのままの恰好で、南原杉子がおちつくのを待ってやった。
「おい、レコードをかけろよ」
 蓬莱和子は、南原杉子の衣裳をほめながら蓄音器に近づいた。
「ジャズがいいわね」
「『いつかどこかで』をかけろよ」
「あら、思い出があるの?」
 その時、南原杉子は、はっきりと南原杉子になっていた。
「あるのよ、御主人との思い出よ。私が、ホールでうたっていた時、御会いしたのよ」
 仁科六郎は驚いた表情で南原杉子をみた。
「私ね。パートナーと踊りに行って酔っぱらったから、舞台にあがっちゃったの」
「いつかどこかで」がなり出した。
「女史、踊ってくれませんか」.
「いやよ、奥様と踊るわ」
 南原杉子は、蓬莱建介の方へにっと笑ってみせた。
「お杉、踊ってくださるの、うれしいわ」
 南原杉子は、蓬莱和子をかかえた。そして、もう、彼女の肉体に何も感じなかった.
「たか子さん、おかしいね、あの二人、あなたも踊られませんか」
「私、ちっとも知らないのです」
 踊っている蓬莱和子はふと身体をかたくした。南原杉子と自分。彼女は、自信がくずれてゆくのを知った。
「御疲れ、よしましょう」
 南原杉子は、蓬莱和子をいたわるように椅子にすわらせた。
 五人は、御酒をのんだり、御馳走をたべたりするうちに、わだかまりをとかしはじめた。しかし、この際、わだかまりがとけるということは、非常に危険なのである。南原杉子は、さかんにのんだ。けれど、はっきり南原杉子を意識していた。仁科たか子は味わったことのない空気に酔いだした。そして、仁科六郎を世界一よい夫君だと信じた。蓬莱建介は、無事に終りそうなのでほっとしていた。彼は、南原杉子に、関係をつづけてくれと頼もうかと思った。それ程、彼女は美しかったのだ。蓬莱和子は、いらいらしはじめた。そして、しきりに、真珠の首飾りをいじった。
 ――本当に、浮気をしたなら、浮気をしましたなど云えないわ。夫と、お杉は何かあったのじゃないかしら。でも、彼女は、仁科六郎を愛している筈。いや、愛しているとみせかけて、夫と何かあるのをかくしているのかしら――
 蓬莱和子は、仁科六郎と、夫建介とを見比べた。蓬莱建介の方が立派である。彼女は、喜びと不安と、どっちつかずの気持であった。
「六ちゃん。いやに黙っているのね。奥様とおのろけになってもいいことよ」
 仁科たか子は、はずかしそうに、しかし嬉しそうにうつむいた。彼女は、善良な女性である。
「お前ときたら、のろけるのは人前だと考えているのかね」
 蓬莱建介は笑いながら云う。
「ねえ、あなた。でもお若い御夫婦をみてると羨しくなるわね」
「あらいやだ。ママさんは、御若いのだと、御自分で思ってらっしゃる筈よ」
 それは、鋭い南原杉子の言である。
「どうして、あなたよりずっと年寄りよ」
「年齢で若さは決められないわよ」
「じゃあ何」
「だって、人間の精神があるものね。五十でも六十でも若い人居てよ。精神的な若さに、肉体が伴わない場合、しばしば女の悲劇が起るのよ。ママさんはとにかく御若い筈よ」
 仁科たか子は、肉体という言葉を平気で口にする女性にびっくりした。
「若くみられて幸せじゃないか」
 蓬莱建介が言葉をはさむ。
「本当はおばあさんなのにね」
 蓬莱和子は、ひどく夫建介と、南原杉子から軽蔑をうけたような気がした。
 仁科六郎は飲んでばかりいた。喋ることがとても出来ないのであった。阿難がまぶしい存在に思われた。何か、遠いところにある女性のように思われた。そして傍にやさしくうつむき加減でいる妻たか子の方が、安心して接近出来る人に感じた。
「南原さんは御結婚なさいませんの」
 仁科たか子は、こんなことを云ってわるいのかしらと思ったが、酔い心地で、南原杉子に恍惚としながら、おずおず云ってしまった。
「お杉は、結婚なんか馬鹿らしくって出来ないと思ってるのよ」
 蓬莱和子は、まともに南原杉子を凝視しながら云った。
「いいえ、そうじゃありませんの、たか子さん、わけがあるのよ」
 仁科六郎は頬を硬ばらせた。
「南原女史だって、結婚したいと思っているさ、だが彼女はまだ気にいった人がないと云うわけさ」
 蓬莱建介は、ねえ、そうだね、という表情で南原杉子をみた。蓬莱和子は、又真珠の玉をにぎった。
「あなたは、いちいち私の云うことに反対なさるようね」
 蓬莱和子は、少し冷淡に、夫建介をみた。
「あら、私、あなたの解釈とも、御主人の解釈ともちがったことで結婚しないのですわ、老嬢秘話をあかしましょうか」
 仁科六郎はうつむいた。
「私、勿論、結婚してらっしゃる方をみて、羨しい限りなんですよ。でも、結婚しませんと誓ったことがあるんです。昔のことですけど、純情少女の頃、純情な少女がある男の死に捧げた誓いなんですよ」
 ――その少女は阿難なのだ。その男は、仁科六郎なのだ。そして、それは過去ではない。現在なのだ――
「おどろいたわね、お杉は子供なのね」
「そうよ、みえない世界で結婚していて、ひめやかに貞操を守りつづけているわけよ」
 蓬莱建介は、南原杉子のつくりごとであると見抜いた。仁科六郎は、みえない世界を、自分達のものだと信じた。ふと、南原杉子と視線があった時に、疲女はうなずいたのだ。
「まあ、お気の毒ね、ごめんなさい、私、いやな思いをおさせしたみたいだわ」
 仁科たか子は心から云った。
「いいえ、私、幸せよ」
 南原杉子は笑った。然し、阿難が泣きはじめた。
「お杉は案外ね」
 蓬莱和子は、わけがわからなかった。然しそれを口にだして疑問の言葉にすることは出来なかった。仁科たか子が居る。
「さあ、とにかく、もっとのまなけりゃ」
 蓬莱建介が云った。南原杉子は、元気よくグラスをつき出した。
 ――南原杉子。私と、蓬莱建介と蓬莱和子の三角の線。私と仁科六郎と蓬莱和子の三角の線。私と、仁科六郎と蓬莱建介の三角の線。私は、重なりあった三つの三角の線を断ち切って。仁科六郎と阿難の線だけを存続させようとしたのだわ。だけど、あらたに、三角の線が出来てしまった。仁科たか子があらわれたのだから――
 ――阿難は絶望――
 ――いいえ、仁科六郎の愛を信じなさい――
 仁科夫妻はむつまじかった。それだけで、仁科六郎と阿難の世界はぐらつきはしないのだが、阿難の脳裡に、色の白い細おもての仁科たか子が明確に残るものに違いないのだと、南原杉子は考えた。
「お杉って人は、仲々自分のことを云わないのね。ねえあなた。今日は、お杉の告白の一部分をきいたわけだけど、もっと何かありそうよ。お杉の性格は疑いぶかいのね。私なんか信用されてないみたいね」
 蓬莱和子は、夫建介と南原杉子を交互にみる。
「じゃあ、何でもべらべら喋ったら、それが信用している証拠になりますの」
 南原杉子は、にこやかに云う。
「まあまあ何でもいいさ」と蓬莱建介。
「いいことないわよ。私は、お杉がすきだから、お杉のために一肌ぬごうっていう気なんですもの」
「僕のために一肌ぬいでくれたらどうだい」
 蓬莱建介は、冗談まじりに蓬莱和子の肩をたたく。
「南原さん、御かわいそうよ。昔のこと思い出されて」
 その時、南原杉子に同情の言葉をよせたのは、仁科たか子である。南原杉子は黙ってうなずかねばならなかった。
 ――何ということだろう。仁科たか子に同情されたのだ。阿難がここで、仁科六郎を愛してますと云って、仁科たか子から嘲笑か、にくしみなうけた方が同情されるよりましだわ――
 ――もう駄目、何もかも駄目。阿難は何も云えないわ――
 蓬莱和子は、真珠をいじりながら、自分が想像していたような集りのふんいきにならなかったことに気付いて腹立たしかった。彼女は、夫建介と親密な関係を、南原杉子にみせるつもりだったのだ。ところが、蓬莱建介は、何かというと南原杉子をかばい、その上、仁科たか子までが。
「ねえ、六ちゃん。あなたはお杉がいつも仮面をかぶっているらしいことをどうも思わない?」
 遂に、彼女は最期の一人に同意を得ようとした。
「僕、わかりませんよ。そんなこと。それより、うたでもうたってくださいよ」
 仁科六郎は、蓬莱和子の得意とする歌をうたわすことが、この場合、最も座が白けないで済むと思ったのだ。案の定、彼女ははれやかにピアノの傍へちかづいた。仁科六郎は、無言でピアノをひけと阿難に命じた。
「私、伴奏しますわ」
「あら、お杉、ピアノひけるの」
「南原女史は何でも屋なんだね」
 蓬莱和子は、楽譜をめくりながら、一番むずかしそうな伴奏のを選んだ。
「初見でおひきになれる?」
「ええ。エルケニッヒね」
 南原杉子は苦笑した。そして、ピアノのキイに手をのせたかと思うと、はやい三連音符をならしはじめた。
 仁科六郎はほっとした。黙って居られることが、そして、南原杉子が自分に背をむけていることが救いであった。
 ――阿難、僕達は何てかなしい対面をしたのだろう――
 彼は、蓬莱和子の歌声などきいていなかった。そして、両手をくんでじっとその手をみていた。
 蓬莱建介もきいていない。彼は、妻和子の不穏を感じて、この集りが終る時までに、何とかして彼女の機嫌をとらなくてはと思っていた。
 蓬莱和子は、時折楽譜をみながらピアノの傍で自分の声に酔っていた。
 ――私は、何といったって今宵の中心人物なんだわ。お杉だってそれに気付いて、内心私に嫉妬しているのだわ。あら、夫が私をみて頬笑んだわ。やっぱり私の美貌が得意なんだろう――
 南原杉子は、ミスがないようにと忠実にひいた。
 曲が終った時、相手をしたのは仁科たか子であった。彼女は、拍手をしなければならないものと、曲がはじまった時から待機の姿勢でいたのだ。
「音が狂ってますわ」
 南原杉子は、三つ四つ、キイをたたいた。
「お杉ったら、どうしてピアノひけるって云わなかったの」
 南原杉子は苦笑した。
「お杉、何
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