かひきなさいよ」
「え、ひきますわ」
 南原杉子は、そっけなく答えた。そして、しばらく静かにピアノをみつめていた。四人の男女は耳をそばだてた。
 ――阿難、かわいそうな阿難。あなたの愛している人は幸せな家庭をもっている人なのよ。たか子さんって人は大人しいいい方なのよ。阿難。あなた嫉妬してはいけないわよ。阿難、泣かないで。あなたの愛している人が苦しんではいけないからね――
 彼女はひきはじめた。彼女の作曲である。テーマは出来ていた。彼女は、ひきながらヴァリエーションをつけてゆく。もう彼女の背後には、仁科六郎一人しか存在していない。弾いているのは阿難。
 ――お杉がピアノを弾く。お杉がうたをうたう。夫の前でうたったのだ。お杉と自分。若さ。才能。いや、私の方が。私は蓬莱建介の妻。妻の資格。お杉にはそれがないのだ。お杉はどんなにすぐれていても老嬢なんだわ――
 蓬莱和子は、老嬢南原杉子を軽蔑した。軽蔑出来たのは、蓬莱建介の存在のおかげであるのだが。
 蓬莱建介は、南原杉子の、立体的な側面の姿を眺めていた。だが、傍に、妻和子が居ることを心得ていた。だから、時折、妻和子の方をみることを忘れなかった。蓬莱和子の真珠の光沢は、彼に、南原杉子とのこれから先の関係を肯定しているようであった。
 仁科たか子は、こんなにはやくいろいろの音の連続を出せるのかと、不思議に思った。
 ――ああ、阿難。ピアノをやめて、僕は狂いそうだ。阿難の感覚。阿難の作曲。阿難の音。だが、やっぱりつづけてくれ、いつまでも、僕は狂いそうだ――
 仁科六郎は目を閉じていた。
 高音部のトレモロ、マイナーのアルペジオ。
 ――阿難。阿難――
 阿難は、頬をつたって流れる涙を感じた。最期の三つのハーモニー。
「阿難」
 突然。それは、仁科六郎の声であった。本当の声であった。阿難は、ピアノにうつる彼の姿をみた。彼女は、キイに手をおいたまま、ペダルもきらずにうなだれた。
 仁科たか子も、蓬莱夫妻も、仁科六郎のさけびをきき、彼の表情を目撃した。誰も何一言云わない。つったっている仁科六郎を、唖然として見上げている。彼の、短いさけびを理解することがどうして出来よう。
 ふいに、金茶色の布がきらめいた。阿難は、まっすぐドアの方をみたまま、部屋を小走りによこぎった。涙がひかっていた。

「魔性なんだよ。彼女には魔性があるんだよ。たか子さん、あなたの御主人は、魔につかれたんですよ。さあ。飲みなおしだ」
 蓬莱建介は、やっとそれだけのことを云うことが出来たのだ。彼にとって、蓬莱氏と、蓬莱夫人が無事に終ったことが一まず安心にちがいなかった。
「あなた、どうなさったの」
 たか子は、共に不安なまなざしをおくった。仁科六郎は、悄然と椅子にこしをおろした。その時、蓬莱和子は、傍のグラスを一息にのむと、ヒステリックな笑い声をたてた。

     十三

 ――阿難は生きてゆけません。一生、こんな大きな幸福の、華々しい瞬間は、もうございませんもの。阿難、とあなたの声。阿難の幸福の瞬間、華々しい瞬間が――
[#地から1字上げ]〈昭和二十七年〉



底本:「久坂葉子作品集 女」六興出版
   1978(昭和53)年12月31日初版発行
   1981(昭和56)年6月30日6刷発行
入力:kompass
校正:松永正敏
2005年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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