気出来なくて御気の毒でしたもの」
実際、蓬莱和子は、その夜部屋の中を片附け、御馳走をつくって夫の帰りを待ったのである。安心して、信頼して、そして彼女は、夫を愛していることをはっきり気付き、そのことを喜んだのである。
「ねえ、私、カレワラよすことにしたわ。そしてちょっと骨休みしてから、うちで、御弟子さんをふやして御稽古するわ。丁度、今うり時らしいから」
蓬莱建介は苦笑した。彼は、妻和子を今迄にないかわいいものと思った。だが、彼は別段浮気をよそうとも思わなかった。
「おい、来いよ」
彼は、二階へあがる時、蓬莱和子に声をかけた。
――ゆるしてね、あなた。私、今迄さんざ浮気をしたけれど、誰も愛したのでもないの、若くて美しい自分を知る喜びだけだったの。――
蓬莱和子は、夫建介の背広をプレスしながら、心でつぶやいた。
十一
蓬莱建介は、来る土曜日の夜までに、南原杉子に、ぜひ会っておく必要があると思った。そして電話をした。南原杉子は不在であった。又、電話をした。又不在であった。電話をくれるように伝えて下さい。だが、電話はかからなかった。又、電話をした。彼はもう、二人の関係に終止符が打たれたことを感じた。
三四日すぎた。蓬莱和子は、招待のことをわざわざ南原杉子の会社まで知せに行った。南原杉子は、愛想のいい蓬莱和子に対して、仕方なくほほえんだ。
「夫はね、あなたにふられてしょげこんでるのよ、私、あんまりかわいそうだもんで、これからちょっとサーヴィスしてあげるつもりなのよ。御店をうることにしたの。私、本格的に、声楽の勉強をしたいしね。でも、お店やめてもあなたと御つき合いしたいのよ。私の気持、うけいれて下さるわね。あなたに対して私、真実よ。それでね、土曜日に、あなたをおまねきするつもりなの」
南原杉子は、例の調子の真実らしき表情や言葉に、反撥も疑問もいだかなかった。その上、彼女は、蓬莱和子から憎悪の言葉を浴びたいと思っていたのに、あてがはずれたことにも決して失望しなかった。
――蓬莱和子は、どっちみち心理に変化をきたしたのだわ。私の出現の結果、南原杉子と蓬莱建介の関係の結果にちがいないのだわ。もう、この一組の夫婦に、完全に関心をもたなくなったわ。いや、それよりも、阿難が全面的に、南原杉子を掩ってしまったからだわ――
蓬莱和子は、仁科六郎も招待するものだと告げた。けれども仁科夫人を招待するとは云わないでいた。
「六ちゃんに、あなたから伝えて下さいませね、ぜひ、カレワラへ七時にね」
蓬莱和子は、南原杉子に対して憎しみだけは依然として内部にもっていた。そして、土曜日に、南原杉子が、うろたえた姿を想像してみた。蓬莱和子は、南原杉子と仁科六郎の恋愛を認めていたからなのだ。そして、夫婦のつながりが、案外強靭でゆるがないものであることを、南原杉子にみせつけたかったのだ。彼女は、仁科夫婦をみて、嫉妬する南原杉子を考えていたのだ。
仁科六郎と会った阿難は、土曜日の招待の話をした。
「他人の目のあるところで、あなたに接するのはとてもいやよ。でも、行きたくないけど行かなきゃならないわね。阿難は、仮面かぶらなければならないの、阿難は、阿難をその間葬ってしまうのがかなしいわ」
「僕だって行きたくない。だけど行かねばならないね、僕達の間が永続するように、ありのままの姿を、他人の前にさらけ出すことはさけなきゃならないよ。とにかく、行こう。阿難は、蓬莱氏を知らないだろう? いい人だ」
瞬間、南原杉子が表面にあらわれた。
「一二度、カレワラで御目に掛ったわ」
沈んだ声であった。阿難は何か云いたいのだ。告白。だが、南原杉子は懸命に押えた。
蓬莱建介はいよいよ明日に土曜日がせまったことを知った。だが、もう心配はしなかった。南原杉子が何を云うことが出来るか。仁科六郎の前なんだから。だが、電話がかからないのは少し癪にさわる。まあいい、いずれは終りが来ることなんだ。
土曜日が来た。仁科たか子は、郵便受から速達の手紙をうけとった。仁科六郎が出勤した後である。
「先日は突然御邪魔して失礼しました。さて、明土曜日の夜七時、ささやかな御招きを致し度く、せいぜいおいで下さいますように。急にとりきめましたことで、御都合もいろいろおありのことと存じますが、何とぞ御出まし下さいませ。御主人様には御電話で御招待いたします」
カレワラの地図がはいっていた。たか子は不審に思った。この手紙をかいたのは、昨日の夕方。消印が六時になっている。それなら、夫六郎のところへ、夫人同伴でと招待の電話をすればすむことなのだ。彼女は、夫に電話をして問い合せようと思った。けれど、何か、夫の背後に、そして蓬莱和子の背後に、あやしいものがありそうな気がした。留守番を、近所の妹にたのんで、いきなり、カレワラへ行ってみようと決心した。彼女は、蓬莱和子が芦屋に住む金持の夫人で、声楽家であるという、それだけのことを知っていたにすぎない。だから、カレワラなんておかしな名前の喫茶店の存在もはじめて知ったわけなのだ。疑念が湧いた。しかし、彼女が招待に応じてゆけは、すぐに何もかも諒解出来るだろうと思った。午後から、いそいそと美粧院へ出かけてセットしてもらい単衣の御召を箪司から出し、襦袢の衿をかけなおした仁科たか子は、すっかり外出気分になった。
カレワラは、本日終了の札を出した。蓬莱和子は、黒のシフォンヴェルヴェットのワンピースを着て、昨日、夫が買って来てくれた真珠の首飾りをしていた。彼女は、女の子に手伝わせてカナッペをつくり、その他、お酒や御馳走を注文した。奥の部屋からピアノを運び出し、喫茶店らしくなく、家具のおきかえもした。真紅なばらを壺いっぱいに活けた。これはその朝、南原杉子が花屋にとどけさせたものである。蓬莱和子は、今日の集りが、非常に面白いものであると考えた。そして自分が中心になれると思った。客はかならず集るものと信じていた。用意万端ととのえた彼女は、ピアノにむかって、ぽつぽつかきならしながら歌をうたい、飾りたてた部屋の中に恍惚としはじめた。彼女は、さっきちらりとみた鏡の中の自分を思い出した。
――シンプソン夫人のように、高尚だわ――
南原杉子は、金茶色のタフタの洋服を下宿の二階できつけていた。髪型は、ひきつめで、後をまるく結いあげ、平常の型を、少し粋にさせた。そして、金茶色の大きな半円のマべ(真珠の一種)の耳輪と腕輪をはめた。鏡を斜めにして、彼女は自分の姿をうつした。しまった胴。フレヤーのスカートがゆるやかに動いて、地模様のこまかい縞がひかる。その上に、白の毛糸のすかしあみのケープをはおり、ゴールドの靴とハンドバッグを片手に二階を降りた。時間は、六時半をとっくにまわっていた。今から、自動車にのってゆけば四十分の遅刻であろう。彼女は広い通りへ出た。五分位待った。空車は彼女の傍へとまった。彼女は自動単にのってから、ハンドバッグをあけ、つけ忘れていた香水を耳もとにふった。香水だけは阿難の香水。阿難のにおいを。彼女は小さなびんを両手で抱きしめた。それは、すぐ消える淡いにおいであった。仁科六郎に会う前は、必ずその香水をつけた。別れる時は消えるものであった。香水のにおいがよく悲劇をもたらせてしまうことを彼女はフランスの小説で知っていたからである。
――阿難、今日は阿難、じっとしていてね。その代り、南原杉子の肉体は、もうほんとにすっかり阿難のものとなっているのよ。今日、無言のうちに蓬莱建介と別離の挨拶をするわね。彼の女類の中に加えられても私は侮辱されたと思わないわ。その方が気楽よ――
――阿難は今日本当にかなしくってよ。でも、じっとがまんをしているわね。仁科六郎のためによ――
――阿難、かわいそうに――
彼女はぽろりと涙を落した。自動車は、繁華街にちかづいた。
十二
カレワラに、最初にあらわれた客は、仁科たか子であった。
「まあ、いらして下さったのね、ありがとう。嬉しいわ。さあおかけになって、あら、いい御召物ね。えんじ色、よく御似合いだわ」
仁科たか子は狼狽した。
「主人はまだでしょうか」
「あら、もうすぐいらしてよ。さあさ」
その時、蓬莱建介と仁科六郎が、連れだってはいって来た。男同志の友情とはよいものである。道で、仁科六郎に出会った蓬莱建介は、歩きながら今日の期待のことを話したのだ。
「女房の奴、君の妻君も招待したんだぜ」
仁科六郎は一瞬たじろいた。
「まったく、いつまでたっても子供じみた女房だよ」
仁科六郎は蓬莱建介に心の中で感謝した。彼は、無事に終るようにねがった。
――阿難がかわいそうだ。僕はたか子にやさしくしなければならないのだから――
「まあ、大いにのもう。女房の御馳走は有難いもんだ」
蓬莱建介は、仁科六郎の気持をよく推察出来た。彼は、世間ずれしている。そして、臆病者である。事件をこのまない。だから、仁科六郎に親切したわけなのだ。
仁科六郎は、にこやかに妻たか子をみた。彼は、阿難がまだ来ていないことにほっとした。
「いたずらするんですね。蓬莱女史は、一しょに招待すればいいものを」
仁科六郎はたか子の横にこしかけた。蓬莱和子は、夫が喋ったことをすぐ感付いていた。
「びっくりさせようと思ってたくらんだのよ。ごめんなさい」
蓬莱建介は、ばらの花の枝にしばりつけてあるネーム・カードをみながら大きな声で云った。
「僕をふった女性はまだ来ないかね」
「お杉、来る筈よ。わざとおくれて来るんでしょう」
蓬莱和子は、ビールの栓をぬきながらこたえた。
「お杉ってどなたですの」
仁科たか子は夫に小声でささやいた。
「あら、御存知なかったわね。南原杉子さんって、とてもきれいないい方よ。あなた、屹度好きになれるわ」
たか子の質問を耳にはさんだ蓬莱和子は、愉快そうにこたえた。
「放送の仕事している人だ」
仁科六郎は、たか子に云った。
――夫がまるで関心のない人なんだわ、そして、蓬莱和子にだって、夫は別にとりたてて好意をもってないわ。美人だけど、もう年輩の方だし、御夫婦は仲よさそうだもの――
たか子は、夫六郎の方に笑顔をおくった。
四人はビールの乾杯をした。
「ねえ、あなた、こんなおまねき本当にうれしいですわ」
「じゃあ、これから度々しましょうね、今度はうちの方へ御まねきするわ」
蓬莱和子はふたたび口をはさんだ。
「南原女史、何してるんだ。シャンパンがぬけないじゃないか」
蓬莱建介はわざと又大声で云った。然し、彼は、南原杉子が来ない方がいいように思っていた。
――彼女のことだから、二組の夫婦の前にあらわれても平気だろう。僕と最初の出会いからして芝居げたっぷりなんだから。でも、四人だけでも仲々厄介な関係になっているのだから、そこへ又、もっと厄介な関係の彼女があらわれたら。あんまりかんばしくないことだ――
彼は、南原杉子とすっかり関係をたつべきだと考えていた。然し、浮気をよす心算ではない。ワイフの知っている女との関係など、物騒だと思ったのだ。
気づまりな空気にならないように、さかんに喋るのが蓬莱和子であったが、本当は、自分の注目をひきたいような言葉ばかりであった。
「この真珠のいわくを申しましょうか」
彼女は、仁科たか子にささやいた。
「たか子さん、うちの女房は大へんな女房ですよ。僕に浮気したら背広買ったげると云ってね、出来なかったから真珠を買わされたのですよ。相手は、もうじきあらわれるだろうところの南原女史。浮気は出来ない。真珠は買わされる。さんざんです」
蓬莱建介が笑いながら云った。たか子は、目の前の夫婦が不思議だと思った。仁科六郎は不愉快でならなかった。だが、快活をよそおわねばならないと思った。
「たか子。僕が浮気したらどうする?」
「いやですわ、冗談おっしゃっちゃ」
「たか子さん、御心配御無用よ。六ちゃんは絶対大丈夫。私が太鼓判を押すわ」
たか子は素直に笑った。蓬莱和子は悠然と頬笑んだ。彼女は、誰からも信頼され、誰か
前へ
次へ
全10ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
久坂 葉子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング