かった。蓬莱建介は、蓬莱和子の夫であるだけでいいのだ、と彼女は思った。
「ところで、君と僕の間を永続させる希望があるかね」
「永続? だって、あなたは私を深く好きじゃないでしょう」
「君は、愛されてもいない人に肉体を提供したと思っているのかい?」
「そうよ。だけど、私、あなたが好きなんだから後悔しないわ。どれだけ永続出来るものか、わからないけれどもね」
「僕に愛されたいとは云わないのかい」
「云わないけど、思うわよ。云えない筈よ」
「愛してるかも知れんぞ、六ちゃんと決闘するかも知れんぞ」
「おやんなさい」
南原杉子は、故意につめたく云いはなった。冗談に対して、冗談でこたえかえすのは、つまらないと思ったからだ。その上、南原杉子は、仁科六郎の名前が、この空気の中に出たことを少し悲しんだのだ。阿難の部分が、既に大きくひろがっている。蓬莱建介は、南原杉子の表情をみておどろいた。
――こいつは本当[#「本当」に傍点]なのかもしれない。うっかりすると、僕がワイフに強いている、蓬莱夫人の地位を、逆にワイフから蓬莱氏の地位をと、強いられる結果になりはせぬか。南原杉子は、自分の行動に於いて、まったくエゴイズムなんだし――
「すると、勝負は僕の負だね」
蓬莱建介は、南原杉子との勝負を意味したわけだ。ところが、南原杉子は、仁科六郎と蓬莱建介との勝負にとった。だから、僕の負だと云った言葉を面白がって笑った。蓬莱建介は不気味な笑いだと思った。
その日は泊らなかった。
南原杉子は、下宿の二階で煙草をやたらに吸った。
――抵抗を感じたのだわ、阿難が、私に抵抗を感じさせたのだわ、そして、エクスタセの中に、はっきりと仁科六郎が存在していたわ。彼はひどく真顔だった。それは、私にとってよろこばしい発見なんだわ――
――何をいうの、阿難をいじめてるみたいよ。阿難ははやく仁科六郎に会いたいわ。会った時、阿難は、蓬莱建介と南原杉子のことを告白するわ――
――いけない。それはいけない。だけど仁科六郎に会う迄、蓬莱建介には会わないわね――
――南原杉子。あなたは無智な女だわ――
――阿難、私は無智な女かも知れないわね――
蓬莱建介の帰りを、待つという気持で待つようになった蓬莱和子は、ピアノをたたいて大声でうたをうたっていた。南原杉子も仁科六郎も、カレワラに顔を出さない。いつでも、自分が真中につったっていないと、気が済まない彼女は、その二人の沈黙と併せて、夫の行動が案じられたのだ。彼女は、自分でおかしい程うろたえはじめた。三人からボイコットされている。彼女の心の中には、すでに、南原杉子へのにくしみが存在していた。
蓬莱建介は終電車で帰って来た。黙っている。蓬莱和子の方からは、南原杉子のことを口に出しかねた。愛想よく、夫の着替えを手伝いながら、彼女の内部は、ざわめきがはげしい。蓬莱和子は、貞淑な婦人の持つ感情を、はじめて抱いたのである。
十
仁科六郎が出勤したのは、一週間ぶりの水曜日であった。彼は、喫茶店から阿難に電話をし、阿難は、しかけのスクリプトを持ったまま、すぐにその喫茶店へおもむいた。阿難は、南原杉子のことを仁科六郎に云うつもりであった。けれど、彼の顔をみた途端、口ごもってしまった。お互に話合ったことは、会ったことのよろこびにすぎなかった。そして、その日の午後七時に、二人は再会した。無言であった。抱擁は、すべて気づまりなことを葬ってしまった。阿難は、南原杉子のことも、つづいて蓬莱建介のことも、すっかり忘却していた。だから、仁科六郎の胸にすがりながら,自己荷責もなかった。阿難は酔っていた。仁科六郎も、妻のある自分を忘れていた。阿難に済まないと思ったのは、過去の真実であるにすぎなかった。
阿難は、みちがえるようにいきいきとしはじめた。仁科六郎も又、健康を取り戻してから、そして、阿難との愛の交流をはっきり自覚してから歓喜の日常を送りはじめた。彼は、もはや妻たか子との夫婦生活にも苦悩がなくなっていた。阿難を常に思い浮べながら、たか子と相対することに抵抗を感じなくなっていた。南原杉子は、蓬莱建介とも時々会った。そして、享楽の夜を共にしながら、その時は、阿難を抹殺させることが出来た。つまり、南原杉子と、蓬莱建介との関係によって、阿難は仁科六郎との恋愛を絶対的なものと信じることが出来たからなのだ。
蓬莱建介は、南原杉子への愛を認めた。然し、認めながら彼は、蓬莱氏を念頭においていた。そして時折、女給やダンサーの類とちがって、話をして面白い取得、妻和子にない新鮮さ、若さを、南原杉子に感じて、いい女に出会ったものだと心でつぶやいた。彼の愛とは、肉慾の中に存在するものである。そして、南原杉子を強いて解剖する必要はないと思っていた。不気味な女だけれど魅かれる。いつかはあきるだろう。唯、それだけであった。
蓬莱和子は、三人が人間らしい喜びに浸っている日常を、唯一人、いらだたしくおくっていた。夫、お杉、六ちゃん。すべて、彼女から遠ざかっていたからである。
ある日、蓬莱和子は、放送会社へ出むいた。仁科六郎を呼び出したのだ。
「どうして来なくなったの」
「病気で寐てたのさ。それにとてもいそがしいんだ」
「お杉も来ないわよ。お杉はどうして来ないの」
「僕にきいたってわかることじゃない」
「お杉と会っているのでしょう」
「うん」
彼女は、間の抜けた質問をしたものだと思った。そして、はっきりと邪魔者にされた自分を感じて、おそろしく激怒しはじめた。
「私ね、何にもあなたとお杉のことを、とやかく云うつもりはないんですよ、私は、お杉が好きなんですからね。お杉に来てほしいのですよ。お杉に会いたいのですよ」
「だったら、彼女に云いたまえ」
「ええ、云いますとも」
蓬莱和子は、ハンドバッグをあけ、伝票と共に、カウンターにお札をつきつけると、仁科六郎に挨拶もしないで喫茶店を出た。彼女は、自分が興奮している原因をかんがえてみるひまもなかった。そして、ただちに、南原杉子のオフィスへむかった。だが、オフィスの前まで行った彼女は、南原杉子を訪ねることが、非常に屈辱的な行為であると感じた時、さっさとカレワラへ戻った。
――お杉に侮辱される位なら、夫に屈従する方がましだ――
彼女は、今夜、建介に南原杉子のことを、たずねてみようと決心した。
ところが、カレワラのドアをあけた時、中から晴れやかな声がした。
「ごぶさた、ごめんなさい」
南原杉子である。
「あらまあ、御久しぶり、どうなさってらしたの」
言葉は、相変らずの真実性をおびているが、その表情には、もはやかくしきれない敵意識があった。
「何だかばたばたしちゃってて。二週間以上になるわね。ごめんなさい」
「心配したわよ」
蓬莱和子は、南原杉子に自分のうろたえをみぬかれないかと案じた。そして、強いて快活に、
「うちの旦那様がね。あなたにとってもまいっちゃったらしいの」
「あら、御冗談、御主人にいつだったか、散々あなたのこと、のろけられちゃったわ」
南原杉子、蓬莱建介が、妻にかくしていることを知っていた。蓬莱和子は、年下のものから、からかわれている気がして腹立しかった。
「六ちゃんのところへ、さっき寄ったのよ。六ちゃんは、とてもあなたを愛してるのね。すぐわかったわ。あなたはうちの旦那様からももてて、すごいじゃないの」
南原杉子は、蓬莱和子が、しきりに自分を観察していることを愉快に思った。
「ねえ、あなたは、うちの旦那様どう思って?」
「いい方ですわ、いい御主人様ですわ、いい御夫婦ですわ」
「そうかしら、私、六ちゃんの夫婦は、とてもいい御夫婦だと思ってよ。あの人愛妻家よ」
南原杉子はにこやかである。
「あなたは嫉かないの」
南原杉子は、答えないで笑っていた。南原杉子は、仁科六郎の妻を知らない。知ろうともしない。彼女は、彼の妻のことを問題にしていなかった。阿難は、彼の妻に会えば、嫉妬するだろうから、知らない方が苦しみが少ないのだと思っていた。
「あなたはでも素晴しい方ね。あなたに、ひきつけられるのは、あなたの感覚ね」
その時、南原杉子はふといたずらめいたことを考えた。
「一度、あなた御夫婦とのみたいわ」
それには、蓬莱和子大賛成である。日はまだ決めることが出来ないが、近いうちにと約束した。蓬莱和子は夫の浮気が未完遂であることを感じた。そして本当に快活になった。
その日の夜、仁科六郎と阿難は、ウィスキーを飲みながら、いつもになくおしゃべりをはじめた。
「阿難は、ピアノを弾く時、直覚が大事だと思うのよ。直覚は直感とちがうの、ある程度理解の上でなければ感じることの出来ないものよ。阿難は、今迄、随分自分の感覚にたよりすぎていたのよ。感覚には自信もてるのよ。でも感覚だけで物事を判断することは危険だと知ったわ。阿灘が若し、昔のままで、感覚的に物事を処理してゆくとしたら、あなたとの恋愛は永続出来ないでしょう。阿難はあなたを直覚出来たから、幸福をつかめたのよ。時折、そりゃさみしいと思うわ。でも阿難は、あなたを知って、あなたと共に、こうして居られることが。阿難は言葉で云えないわ、阿難は作曲してみるわね」
「阿難、有難う、僕は嬉しい」
仁科六郎は、阿難の言葉がまだ終らないうちに、力強く云った。
「阿難、僕こそ幸せだ。僕達のことは、おそらく僕達しかわからたい世界かもしれない。僕達の間だけに存在する世界なんだ。お互に、この世界を大事にしようね」
阿難は大きくうなずいた。彼女は一つの問題を仁科六郎に呈しようとした。ところが、それが南原杉子の働きのように感じたので、云わずに終えた。つまり、その世界が、肉体をはなれて存在するのか、という疑問である。今、お互に、肉体的な交渉を断った場合、その世界はぐらつかないものか? それは疑問である。
下宿の二階で、南原杉子は夜を徹した。
――阿難の愛は、南原杉子の肉体を介さないでも存在します。でも、そんなこと、申出るのは嫌です。あまりにも阿難はみじめよ――
――仁科六郎の返答をききたいのだから――
――よして下さい。その返答がどちらであっても阿難はあわれです――
阿難は懇願する。
――蓬莱建介との関係を断って下さい。彼との関係で得たことは、大きいでした。つまり、阿難と、仁科六郎の世界は絶対のものだったのです。確証を得たのです。それがわかったのだから、もう蓬莱建介の必要はないわけでしょう――
――阿難、だけど、蓬莱建介に興味をもったのは、蓬莱和子の存在があったからなのよ。彼女の真実、彼女の妖気。彼女の自信の根源、すべてまだわかっちゃいないのよ。勿論、そんなことよりも、[#「よりも、」は底本では「より、も」]阿難と仁科六郎との愛情の確証を得たことの方が大きな発見だったことは間違いないけれど――
――阿難がかわいそうです。阿難が抹殺されてなければならない時間があるということは、しかも、仕事の時でない。享楽の時なのよ――
南原杉子は、阿難の申出を拒絶することが出来なくなった。南原杉子は、がく然とした。阿難が、彼女のすべてになってしまったのである。そして、阿難のすべては仁科六郎なのだ。蓬莱夫妻は存在しないのだ。
その夜、同じ夜、蓬莱建介夫妻は語り合っていた。
「お杉とあなたは何でもないのね。さあ、真珠を買って頂かなくちゃ。だけどもう一週間あるわ、一カ月の期限にね、そうだ、お杉が一度一しょにのもうと云ってたのよ。三人で。来週の土曜日、大宴会しましょう。カレワラをかしきってね、七時頃から、そうそ、六ちゃん夫婦も呼びましょうよ」
蓬莱和子ははしゃいでいた。彼女は、やはり蓬莱建介の妻であったのだ。蓬莱建介は、妻を欺いている形になってしまった。
――今更、浮気しましたとは云えない。真珠を買ってやらなければ。だが安いことだ。彼女はもう僕だけのものになりそうだ。案外いい奥さん。さて、しかし、土曜日は、おそろしいことになりはしないかな――
「ねえ、あなた、背広買ったげますわね、浮
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