「成程ね、僕も彼女にふれがたいんだ。いい女さ」
 突然、南原杉子はたちどまった。
「ねえ、あなたが好きになったわ、かまわないこと、私、好きになったら、もうれつ好きなのよ」
 南原杉子は、自分が心にもないことを口にしていることに、一種のよろこびを感じた。
「君は、スポットじゃないね」
「勿論よ。そしてあなたのスポッツでもないわ」

 ――如何して私から誘惑などしたのかしら。金をうるための娼婦。肉体的な享楽だけの芦屋婦人、彼女等は割切っているのに。けれど私は、金のためでも、肉慾のためでも、勿論、恋でもない。別の意味……。たしかに意味はある筈。だが、その意味は何の心の動きだかわかっちゃいないわ。蓬莱建介は、私を愛しちゃいない。単に肉慾の対象にしているのだわ――
 ――阿難がみじめだわ。仁科六郎を愛している阿難がみじめだわ――
 ――衝動的なものだろうか、いいえ、下宿を出る時、今夜は用事で帰れませんと云ったんだわ――
 ――阿難があんなにとめたのに、南原杉子はひどいわ――
 ――いいえ、阿難が南原杉子をこんな結果にさせたのよ。仁科六郎を愛する故に、かえって、蓬莱建介とのつながりを強いたのよ。何故……。いや蓬莱和子。彼女に対しての働きはないのかしら。それが最も大きいんだわ。彼女が、私に示す、いつわれる真実のマスクをはがしてみたいのよ。彼女の嫉妬と憎悪を露骨にうけたいのよ――
「ねえ、あなた、奥様におっしゃるおつもりなの」
「云ったらいけないのかね」
「どちらでもいいわ」
 二人は笑った。蓬莱建介は笑った後、背筋に不愉快な戦慄を感じた。不気味な女だ。と彼は思った。
「私から、云ったらどうかしら」
「六ちゃんに云いつけられるよ」
「奥様、何ておっしゃる? お杉と主人とが浮気しましたって、彼に云うわけ?」
「一体、君は、六ちゃんとどうなんだ」
「どうってきくのは愚問よ」
 愚問だと云うのは返答ではない。全く、あいまいな言葉であるが、しかし、愚問よと云われると、二つの意味を一つに確証してしまう。潜在意識のはたらきでである。南原杉子は、度々愚問よという言葉を口にすることがあった。
「じゃ、君は僕を好きだと云ったのは嘘?」
「好きだから本当よ」
「同時に二人を好きなのかい」
「三人よ。あなたの奥様もよ」
「でも、誰かを裏切ったことになるね。つまり、六ちゃんか、うちの妻君か、僕か。背信の行為じゃないか」
「背信、背信って何故?」
「君は少しおかしいよ。じゃあね、君が若し、六ちゃんともうれつに愛し合っていてさ。六ちゃんが他の誰かと、そうだ、僕の妻君でもいいさ、関係したとすれば、背信の行為じゃないか、嫉くだろ?」
「あら、背信じゃないし、私嫉かないわ。その場合を仮定したらよ。嫉くのは自分達の愛情の接点がぐらつくからでしょう。そういった行動。つまり第三者との交渉などは、たしかな愛情の裏付けにならないわ」
「じゃあ、君は三人、つまり、僕と、六ちゃんと僕の妻君のうち、一人以外は、愛情がないわけになるじゃないか」
「あなたは、私のたとえを私の現実だと思ってしまったのね。私の現在の場合、三人の誰とも愛情の接点をみとめていないのよ。私が好きでも相手は私を愛しちゃいないものね。あなたはおかしな人ね、スポットを好きなこと、それは、奥様に対して背信だとはおもってらっしゃらないし、私とこうなったことも別に心に矛盾がないのでしょう。それは、奥様との愛の接点がたしかにあるからなのか、あるいは、私のように、誰からの愛情もみとめていないのか、どちらかよ。百パーセント前者でしょう」
「わからないね、君の云うこと」
「私は、あなたがわからないことが、何か知っててよ。私が三人の人に愛情をもつということでしょう? だって何も一人の人以外に、愛情を抱いてはいけないことはない筈よ。それからあなたの心はちゃんと見抜けてよ。あなたは、奥様以外の女性が複数だとしても、単に肉体的な快楽の対象にしているし、スポットはまだ手が届かないだけ、いずれそうなるに違いないわ、そして、すぐにあきるのでしょう、わかっててよ」
「どうだっていいさ、理窟のこね合いはよしにしよう」
 蓬莱建介は黙るより他はない。
「人間って、割切れないものを割切ろうとする。へんね」
 南原杉子も、これ以上、理窟も云いたくなかった。彼女は、阿難がしきりに身もだえしはじめたことに、はっとしたのだ。
 ――阿難、私は、未来によこたわっている大きな事件をたのしみにしているのよ。そこへ到達するまでのことは、すべて手段として自分でみとめているだけよ――
「ねえ、あなたを好きなのは、あなたに迷惑かしら」
「別にね、僕だって好きなんだからね」
「だったらいいわ、いいじゃないの」
「何が」
「いえね、じやあ、度々会ってくださる?」
「こっちがのぞむところだね」
「じゃあ余計いいわ」
「だが、君困るだろ、六ちゃんとも会わなきゃなんない」
「あなただって、スポットやこの間の踊り子や、あら、又同じことのくりかえし、とにかくお互いの邪魔にならなきゃいいでしょう」

 二人は、会社の電話を教え合ってわかれた。朝、十時である。
 別れてから、蓬莱建介は実に妙な気がした。南原杉子。一体彼女は何だろう。わからないものには一種の魅力がある。そして、わかる迄は不安でもある。とにかく、一夜の享楽は享楽だったのだ。彼は会社へむかった。
 南原杉子は、洋服はそのまま、ただ髪型だけ、いつものように結いあげで会社へ。
 夕刻、仕事から解放された時、彼女はいそぎ足で放送会社へむかった。仁科六郎に会いたいのだ。彼への愛情を確証するためである。受付で彼の名をたずねた。二日お休み。昨日と今日。
 彼女は、ダンス場へおもむいた。彼の病気――多分病欠にちがいない――重いような気がする。ダンスを教えながら、何かひどくいらだたしい。早々にひきあげて下宿へ。
 南原杉子は二階へあがり、たった自分一人の世界になったと思った途端、つみあげていたふとんに体を投げて急に泣きだした。
 ――阿難、ごめんなさい。阿難、ゆるして下さいね。でも、ああなったことは阿難がさせたのよ。阿難の熱愛している仁科六郎の存在がさせたのよ――
 涙を流したのは、南原杉子であろうか。否、阿難が涙を流したのだ。
 ――阿難がかわいそうよ。どうして、蓬莱建介とああなったの。阿難はせめるわ、かなしいわ。阿難は仁科六郎だけで生きているのよ。阿難が宿っている南原杉子の肉体。それは勿論かりそめのものなんだわ。だけど、阿難が一たん宿ったかぎりは、仁科六郎以外の男にふれさせたくないわ――
 阿難は、南原杉子の肉体をゆすぶった。はげしく。南原杉子は阿難に抵抗しようとする。
 ――阿難、もうしばらく私を解放しておいて、阿難の純潔をけがしやしない。私は蓬莱建介を愛してやいない――
 ――ゆるさないわ。ゆるすことは出来ないわ――
 彼女は泣きつづけた。

 蓬莱建介は、わけのわからないものを背負ったなり、蓬莱和子の前に現われた。いつもの如く、うすぎたない空気のよどんだ家庭とも云えない場所。
「昨日はおたのしみだった? どう、思いがかないました? 御とまりのところをみれば、私が背広を買うことになったかな」
 彼女は、昨夜一晩寐ていなかった。
「いや、未完遂、昨夜は、友達に会ったのさ、軍隊の時のね」
「それは、御気の毒様」
 蓬莱建介は、妻をみた瞬間、浮気をした話を云ってはならないものと心に決めていた。彼はひどくむっつりと、おそい夕飯をたべた。蓬莱和子は非常に朗かであった。夫の言葉を信じたからなのだ。
「賭の期限をきめないこと、一カ月にしましょう」
 蓬莱建介は黙っていた。その夜、二階の彼の部屋に、蓬莱和子は姿をみせた。ひどく、やさしく。

     九

「私、子供が出来たらしいですわ」
 仁科たか子は、夫六郎の枕許にすわっていた。欠勤四日目である。流行性感冒にかかって仁科六郎はひどく高熱を出して苦しんだ。たか子は献身的に看護した。熱も降り坂。だが、まだ起き上ることは出来ない。うつらうつらゆめをみていた彼は、彼女の声にはっとした。彼は、阿難のことしか意識の中になかったのだ。
「それはよかったね。身体を大事にして」
 仁科六郎は、しばらくしてぽっつり云った。彼は子供をほしがっていた。けれど、最近は子供のことに関心を持たなくなっていたのだ。
「あなたこそ早く元気になってほしいわ」
 流行性感冒にかかったということは、平常から体が弱っていたのだと、たか子は解釈していた。彼女は夫を疑わなかった。夫婦関係の間隔がいつのまにかひろくなっていたのだ。
「今、何時だろう」
「二時すぎよ」
 仁科六郎は又目を閉じた。
「あなた、うわごと云ってらしたわよ」
「なんて」
「よくわからなかったけど御仕事のことでしょう。私、会社へ今朝電話しておきました」
「そうか」
 仁科六郎の瞳の裏に阿難が浮んでいる。夢で、ドビュッシーをきいていたのだ――阿難がピアノを弾いている。その背後に自分がたっている。突然、彼女が弾く手をやすめた。ところがピアノは鳴りつづけている。ふしぎでしょう、と彼女が笑う。そして、ピアノの傍からどこかへ逃げ出そうとする。自分が追いかけようとする。突然、彼女が両手で顔を掩い泣きはじめた。近寄ると、私を苦しめないでと云う。――
 仁科六郎は、阿難が泣いている姿を、現実にみたことがないのに、夢でみたことに何か不安を感じた。
「ねえ、どっちだと思う。男の子かしら女の子かしら」
「どっちがいい」
「女の子がほしいの」
「何故」
「私が、女にうまれてよかったと思うから」
 仁科六郎は、はっきり目をひらいて、たか子の顔をみた。
「ね、幸せそうでしょう」
 仁科六郎は、その言葉を率直にうけとることが出来なかった。
「気の毒だと思っているよ。仕事が仕事で、帰りはおそいし、酒はのむし、月給はすくないしね」
 彼は、そしてたか子の顔から視線をはずした。
「そんなこと。私は大事よ、あなたが」
 仁科六郎は、甘える気持でたか子の手をつねった。
「腹がへったから、何か食べさせて」
 たか子が台所へたった後、仁科六郎は阿難のことを又考えはじめていた。一分もしたろうか、彼は、両手をくみあわせて、自分の内部に発見されたことに驚いた。
 ――ゆるしてくれ、と僕は阿難に云っているのだ。たか子へ愛情がないとは云え、夫婦生活をおくっているのだ。それを僕は阿難にすまないと思っている。たか子に、ゆるしてくれとは思っていない――

 南原杉子は受話器を降した。仁科六郎はまだ休んでいる。会社の机の前の椅子にこしかけて、煙草を吸いながら、彼女の表面に現れた阿難を煙でかくそうとした。その時、別の卓上の電話が鳴った
「南原さん、御電話です」
 彼女は、紙片と鉛筆をもって、その電話にちかづく。
「もしもし、南原でございます」
「もしもし、蓬莱建介でございます」
「なんだ、あなたなの」
「どうして電話くれない?」
「あなただってくれない。待っていたのよ」
「きょう、きみの生活に、少し割こむ余地があるかい」
「ある。ガラアキ」
「六時」
「カレワラで」
「駄目、梅田のね、そら新しいビルの地下で」
「わかった」
 南原杉子はガチャリと受話器をかけた。阿難が、いたましいさけび声をあげた。

「不思議だね。僕が今迄抱いていた女性観がくつがえされそうな気がして来た」
 蓬莱建介は、南原杉子を、たった二時間だけの相手に出来なくなって来たようだ。今迄のように、二時間後に、これでしまいと決め、次はさらりとした気持で新しい女に自分をむかわせる。そして、又偶然別れた女に出会えば、出会った時に新鮮になれる。ところが南原杉子の一夜の後、彼女を、他の女性のように、簡単に処理出来なくなった。
「あなたは、スポットガールを何故私に会わせたのでしょうね」
 しばらく笑っていた南原杉子が突然話題を転じた。
「深い意味はないがね」
「そう、それなら、スポットガールのこと私忘れてしまうわね。ちょっと煩雑すぎて来たから」
「何が」
 南原杉子は答えな
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