、南原杉子はどうなるんでしょう――
 ――黙って。阿難は仁科六郎を愛してるのです。はっきり。強く。大きくよ――

     七

 審査が正当であり適確であることは、この世の中にめったにあり得ない。殊に、ダンスの競技会に於いては、甚しい閥があって、見事だと思われるものがおとされてゆく。赤羽夫人の場合、大阪に地盤もなく、審査員ははじめて知るダンサーであったが準決勝までいった。優勝はしなかった。審査員同志でかなりもみあったけれど、彼女の考案した新しいステップはかえって反感をよんだのだ。赤羽夫人は、パートナーを連れて早々に競技場をひきあげると、うさばらしに飲みにゆき、キャバレーへ踊りに行った。はやいテンポのジャズが演奏されていた。赤羽夫人はパートナーと共にすぐ踊り場へ。そして、フレンチホットのステップでぐるぐる旋回しはじめた。長い髪の毛にピン一本とめていないので、ゆるくカールされたそのさきの方が肩や背にみだれる。何曲目か踊りつづけた時、ふと、赤羽夫人の瞳が輝いた。長い衣裳のダンサーと頬をすりよせて踊っている男。蓬莱和子の夫建介である。かなりのんでいた赤羽夫人は、丁度舞台近くに踊っていたのだが、パートナーに片目をつぶってみせ、いきなり両手をくみほどいて舞台へあがるらせん形の階段をのぼって行った。競技場の姿のままなので、ブルーの長いドレスに銀の靴をはいており、胸のところに、準決勝のしるしの造花のばらがとめてある。彼女は、マイクの前で丁度はじまりかけた演奏にあわせて、「いつかどこかで」を唄い出した。時折酔った御客が舞台へあがり胴間声をはりあげる例はあるが、婦人のたぐいはおそらく始めてなのであろう。バンドは愉快そうに演奏をつづけ、踊っている人達は、赤羽夫人の声に、そして彼女の姿に集中した。赤羽夫人はうたをうたうために舞台へあがったのであろうか。否、彼女は、蓬莱建介に自分の存在をわからせようとしたのだ。しばらくして彼は気付いた。そして、ダンサーと一言二言語り合いながら舞台近くへ踊りながら近づいて来た。頬笑みながら、コケティッシュなまなざしを蓬莱建介におくる彼女。彼は戸惑うた。彼は南原杉子とわかっていても、舞台にいる人をジャズシンガーと思っているのだから、先入観念と、今の印象がごちゃまぜになって解し難いのだ。「いつかどこかで」が終ると、赤羽天人は、バンドマスターにちょっと首をすくめてみせ、らせん階段を降りた。パートナーは笑っていた。二人は椅子に腰かけ煙草に火をつけた。
「やっぱり南原さんですか、びっくりしました」
 蓬莱建介はダンサーをつれて赤羽夫人に近づいた。パートナーは驚いた。

 青い螢光燈がお互の顔を青白くみせる。南原杉子と蓬莱建介である。
「ママ、もう一本ぬいてくれよ」
 白い泡をふいたビールびん。赤羽夫人は衣裳がえしてすっかり南原杉子になっている。
「あなたと御話したかったから、あんな芝居しちゃったの」
「でも上手いもんだね」
 南原杉子は、南原杉子でないかも知れぬ。あたらしくコケットリーな女になっている。
「あなた、美しい奥様で、世界一幸せな旦那様よ」
「どうだかね」
「あなたなんか、浮気心もおきないでしょうね」
「御推察にまかせるね」
「じゃあ、今日の彼女にうらまれたかしら。御約束あったんじゃない?」
「僕は約束がきらいでね」
「あら、私もよ」
「ところで君にやいてるぜ、妻君が」
「あらどうして」
「六ちゃんだ」
「おやおかしい。わたくしが嫉いてるのに」
「じゃ、六ちゃんはどっちが邪魔なんだ?」
「そりゃわたくし。それからあなたもよ。でも、奥様、六ちゃんの思いに対して冷酷なんでしょう」
「人間の思うことはつまらんね。することもだよ」
「うそおっしゃい。あなたはまるで傍観者みたいにおっしゃるけど、奥様大もてだから、やっぱり内心は心配なんでしょう。美しいものは、そっとしまいこんでおきたい筈だもの」
「ふふ。君は、妻君の浮気の相手を何人知っているわけ」
「奥様浮気なんかなさらないわ。浮気をなさったら私、かなしいわ。私、奥様好きですもの」
「君は変態かい?」
「そうかもしれないわ。あなたが浮気なさったら、奥様のためになげくわよ。でも、ともかく奥様は、大もてね」
「それで僕が幸せってことになるのかね」
「誇よ」
「まあいいさ、どっちにしろ。ところで君と僕が浮気をしたらどういうことになる?」
「奥様はあなたが浮気しないものと思ってらっしゃるわよ。やっぱりあなたがお好きで、しかも、あなたに愛されているって御自信がおありですわ」
「まってくれよ。俺はそうすると、ひどく妻君に侮辱されてるようだぜ」
「何故」
「浮気しないなんか僕を人間並にしてないじゃないか。自分だけはさっさと浮気してさ」
「ほらほらやっぱりあなたは傍観者じゃないわ。あなたの最愛の人は奥様なんでしょう」
「何だかわけがわからなくなったよ。ねえ、それより、君と浮気していいかい?」
「と、奥様におききあそばせ」
 二人は哄笑した。南原杉子は、自分が口から出まかせに、でたらめなことを喋りたてたと、おもしろく思った。
 終電車で、南原杉子は下宿に戻った。彼女は蓬莱建介と自分の会話を思い出した。彼は約束を嫌うといって、彼女に再会の約束を強いたのであった。彼女は三日後、しかもカレワラで会うことを指定した。
 ――南原杉子。一体どうしようというの――
 阿難のおごそかな声である。
 ――阿難、黙っていて。おねがいだから、黙っていて頂戴――

 一方、蓬莱建介が自宅に帰ると、蓬莱和子は美顔術をやっている最中であった。鏡の前にすわって、べたべたするものを顔中に塗りつけ、神妙に皮膚をこわばらせていた。
「おい。お前の愛人とランデヴーしたぞ」
「あらそう、お杉とね、よかったでしょう」
 蓬莱和子は、ゆっくり静かに口をつぼめたなりこたえた。
「彼女と浮気したとしたら、おこるかね」
「どうぞ。だけどあなたが惚れても彼女はあなたなんかに惚れやしないわよ」
 頬の下あたりに、幾条ものひびが出来た。彼女は美顔術をほどこしている最中であることをわすれはじめた。
「よしよし、じゃあ賭けよう、何がいい」
「そうね、あなたに背広つくってあげるわ」
 彼女は、美顔術を中途でよさなければと、鏡をみかえって、あわてて手拭いで顔をふいた。
「じゃあ、お前は何がほしいんだ」
「真珠のネックレース。チョーカがいいの」
「浮気させてもらって、背広をもらう、しめしめだ」
「浮気出来なくて、真珠をかわされるあなたは、ちっとかわいそうだこと。あら、だけど証拠はどうするの」
「浮気したらしたと云うさ」
「あなたの言葉を信用しましょうか、いえ、私、お杉をみればすぐわかるわ、よろしい」

 蓬莱和子は万年床である。その敷布はうすぐろく、かけぶとんのいたるところにほころびがある。そういった彼女を、ひどく建介はきらっていたが、彼はもう何も云はない。家の中は不潔で、台所の鍋の中は、一週間も同じものがはいったままになっている。夫婦生活の倦怠は家の中に充満している。建介は自分の部屋だけ自分で片づけていた。ベッドを一台もちこんでいる。時々、和子は建介の部屋へ来る。彼女は夫を少しあわれんでみることがあるようだ。しかし、夫はあわれまれているとは気付かない。そして行動だけで妻にこたえる。その日は、階上と階下別々に寐た。建介は、南原杉子の言葉を思い返してみた。彼女は、彼が妻を愛しているのだと云い、妻も本当は彼を愛しているのだ、と云ったのだ。建介は自分に問う。
 ――俺は、ワイフが世間体に俺のワイフであってくれさえすれば安心なんだ――
 そして、寐返りをうつともう眠っていた。

     八

 待合せの時間よりも二十分も前に、南原杉子はカレワラにあらわれていた。蓬莱建介を待つのである。蓬莱和子は、御客の一人と親密に話をしていたが、南原杉子の方に朗かな声をかけた。
「お杉。まあまあ今日は、すっかりかわった感じね」
 南原杉子は、髪毛を派手にカールして、その上、御化粧もくっきりあざやかにほどこしていた。いつもの直線的な洋服ではなく、衿もとにこまかい刺しゅうのある絹のブラウス。そして、プリーツのこまかいサモンピンクのスカート。手には赤いハンドバッグ。白い手袋の下からちらつく、赤いマニキュア。
「先達ては御主人様に御馳走になりましたのよ」
「そうですってね。お杉、おいそがしいでしょうけど、ちょっとあれと遊んでやって下さいね」
 南原杉子は川に面したテーブルの近くに腰かける。蓬莱建介とまちあわせだとは云わない。冷いのみものを注文して、彼女は川をみる。
 ――仁科六郎、昨日あった時、ひどくやせたみたいだったわ。口数もすくなかったし、阿難は心配だわ――
 ――阿難、今日、斯うして別の男と媾曳することはいけないかしら――
 ――そうよ。阿難は罪を犯してるような気がするわ、たとい、今から媾曳するのが、南原杉子であっても、阿難はいやなのよ――
 ――だって、蓬莱建介を愛しちゃいないのよ――
 ――それでもいや、さ、彼が来ないうちに、帰ってしまいましょうよ――
 南原杉子は、少し腰をうかした。が、又煙草に火をつけて落ちついた。ドアがあいた。蓬莱建介がはいって来た。
「まあ、先達てはどうも御馳走様。今日はおひとり[#「おひとり」に傍点]?」
 蓬莱建介は少し渋い顔をした。妻和子の手前。
「偶然ね。私もひとりよ」
 南原杉子は、にやにや笑う。
「ちょっとのぞいてみたんだ。おい水くれ」
 彼は女の子に水を注文した。蓬莱和子は、笑っている。彼は、二人の女性が何かたくらんでいるのではなかろうかと思った。蓬莱和子の客は帰ってゆく。
「ねえ、奥様と三人でのみにゆきませんか」
 南原杉子の言葉が終りきらぬうちに、
「私、今日、約束があるのよ、お杉、彼に附合ってやって下さいな」
 蓬莱和子は、今日はおひとり? と建介に問うた南原杉子の言葉に、内心こだわっていた。

 電車通りを横ぎったところで自動車をひろった蓬莱建介と南原杉子。
「おんなって実際わからんね」
 彼女は、声高に笑った。
「だって、待合せのこと奥様におっしゃらなかったでしょう」
「何故わかる」
「あなたの奥様は、御存じのことすべておっしゃる性格の方ですもの、私に待合せのこと、おっしゃらなかったわ」
「じゃあ、偶然の出会いになってるわけだね」
「そうよ」
 南原杉子の右手が、ふと蓬莱建介の膝にふれた。彼女はそれをわざと意識的な行為にするため、強く又彼の膝に手の重みをかけた。
「どこへ連れてって下さるわけ」
「僕のね、かわいい女をみてほしいんだ」
「それは興味」
 自動車は繁華街の手前でとまった。二人は横丁のバーへはいった。
「ひろちゃん、居るかい」
 中からばたばたと草履をならして出てきたのほ、色白のあごの線の美しい娘。小紋の御召しが似合っている。
「まあ、けんさん、ひどいおみかぎり」
 隅のソファへ彼はどっかりこしかけた。南原杉子もその隣にすわる。
「この女史、ジャズシンガーだよ」
 南原杉子は、マッチの火をちかづけてくれるその娘ににっこり笑った。
「おビールだっか」
 娘がスタンドの方へゆく。御客は一組。スタンドの中で、マダムは愛想わらいをふりまいている。
「ひろちゃん、どうだ」
「いいわね。大阪に珍しいわ、だらだらぐにゃにゃした女性ばかりですものね」
「いいだろう」
「もう少し観察してから、アダナつけるわ」
 ひろちゃんを相手に、二人はのんだり喋ったりした。大した話ではない。けれど、二人の親密度をました。
「あなたはスポットガールの何に魅かれるわけなの?」
 腕をくんで、少しさびた通りを歩いている時、南原杉子は蓬莱建介に問うた。スポットガールとは、彼女が先刻、ひろちゃんにささげた愛称である。たった一つの点。決して線がそれにつながってないという意味。蓬莱建介は、何のことだかわからないが、彼女のつけたアダナの音《オン》がよいと云った。
「魅力ね、魅力の根源はね」
「つまり、スポットだからでしょう。彼女は誰からも触れられてない
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