しかし、戸籍上、夫婦であり、人の認める夫婦でもある。彼自身、それを認めているにすぎない。
「まあいいさ、お前は公園のベンチさね。共有物だよ」
蓬莱和子が、ベンチと云われた侮辱に答えようとした時に、ドアがあいて、はれやかな南原杉子の声。
「御花届いて? ああ、あるわ、いいでしょう」
「まあ、お杉本当にありがとう。うれしいわ」
蓬莱和子は椅子からたち上って南原杉子にちかづいた。
「花屋の前で、あんまりきれいだったもんで。ああ疲れた」
「おいそがしいのでしょうね。大部あたたかくなりましたわね」
南原杉子は、自分達の方をみている男に気づいた。
「お杉。あたしのダンツクよ。さあさ。あなた、おまちかねの方よ」
蓬莱和子は少し嫌味な笑い方をした。南原杉子は軽く頭をさげた後、
「ねえ、これ、あずかって下さんない? 私、ちょっとバタバタ出かけなきゃならないの」
大きな風呂敷包にはじめて蓬莱和子は気がついた。何故なら、それまで南原杉子の容姿の観察にいそがしかったのだ。
「はいはい御預りしますわ。ああそうそう昨日六ちゃんのところへ泊ったのよ。奥様ってとてもかわいい方よ。仲がいいの、とっても」
蓬莱和子は南原杉子の表情を探ったが、南原杉子は平然としていた。蓬莱和子は、少しがっかりしたのだ。だが、背後の夫に、昨夜のことをきこえがしに云ったことが面白く思えた。
「じゃあ私、失礼してよ。又来ますわ」
蓬莱建介の方に目で挨拶をして、そそくさと出て行った南原杉子。その後。
「どうお」
「お前よりはずっといいね」
蓬莱和子は別に腹をたてなかった。
「ねえ、あれどう思う。ヴァージンかどうか」
「俺の知ったことじゃない」
「ねえ、六ちゃんとらしいのよ」
「で、お前が嫉くというのか、くだらんね。ところで昨夜は、六ちゃんのところへ泊った。それをわざわざ云うあたり、お前の間が抜けてるところさ」
「どうして間が抜けてるんでしょうね。云ったっていいじゃないの」
「反応をみようとしたが、あにはからんや」
「ほっておいて下さいよ。つべこべつべこべうるさいったら」
蓬莱和子は、南原杉子が仁科六郎とどんな交渉しているかということよりも、仁科六郎に対する彼女の感情を知りたいのだ。
――いい加減。私に嫉妬するなり、苦しんだり、それを私に信用ある私に、打ち明けようとすればいい。不気味な愛慾。アネモネの花――
蓬莱和子は、南原杉子を少し憎みはじめた。南原杉子は、度々カレワラに現れるのだが、仁科六郎のことには一言もふれないのである。そして又、仁科六郎も蓬莱和子に沈黙。
「その包み何だい」
建介は大きな箱の風呂敷包がまだ放り出してあることが気になった。
「何だっていいいわよ」
蓬莱和子は、乱暴にそれを奥の部屋へ持ちはこぶと、すぐピアノの蓋をあけた。ピアノの音は間違いだらけだし、声はヒステリックにわめいている。
――案外、妻のいいところが発見出来たものだ――
夫は苦笑しながらカレワラを出た。
南原杉子は、午後の鋪道をいそいで歩いていた。楽譜屋から、レッスン場へむかっている。新しく輸入されたフランクの楽譜を買ったので早速ひこうとしている。彼女は歩いている時、あちこちみてはいない。正しい歩調で、まっすぐ前を凝視しているが、もう無意識のうちに、そのポーズが身についていて、頭の中では種々考えているわけだ。
――あの人に四日も会っていないのだわ。私は不安。阿難が不安なのだ。さみしがっている。蓬莱和子と昨日一しょなのだ――
彼女は、放送会社の方へ歩く方針をかえた。その時、後から肩をたたかれた。
「阿難」
傍の喫茶店の奥まったところに二人は向い会って坐った。仁科六郎は、紡績会社へ二度程電話をした。二度とも彼女は不在であった。とにかくどうしても今日会わねばならないと思っていたのだ。阿難も又会いたかったのだ。
「会いたかったのよ」
「僕もだ」
「何故かしら」
「僕もわからない」
「でも、会ってほっとした」
「そうだ」
二人とも不安も疑惑も消えてしまっている。きく必要のないことはきかない。又云う必要のないことは云わない。これは仁科六郎の信条であった。南原杉子はちがう。彼女はきく必要がなくても相手の返答をたのしみたい。云う必要のない時も云ってみたらという好奇心がある。ところが阿難は、もう完全に仁科六郎を信じて疑わなかったから何も云わないのだ。阿難は、南原杉子と異質である。恋をする女である。嫉妬もする。だからこそ、仁科六郎に会う迄、心に不安があったのだ。向いあった今、それはすっかり消えている。
「阿難は幸せだと思うわ」
阿難はにっこり笑う。仁科六郎も笑ってうなずいた。と、テーブルの下に置いてあった楽譜がふと床下に落ちて、仁科六郎のあしもとにころがった。
「楽譜?」
「ええ」
「誰の」
「阿難のよ。阿難、ピアノ弾くのよ」
「何故、今までかくしていたの」
「云う機会がなかったもの、阿難が弾くと云う時は、ピアノの傍でひきはじめる時よ」
「すごい自信だね」
「ええ、但し、近代もの以外は人の前でひけないのよ」
「きかせてほしい」
「即物的じゃないわよ」
「何でもいいききたい」
「何でもいいとはひどいわ。私、自分のひき方を決めてあるわ。いろいろ変えたけど。でも、ラヴェール、ドビュッシーあたりがひけると思うだけよ」
「誰に習った?」
「あなたの知ってる人、大方に師事したけどみんないやでよしたの。後は、レコード勉強と、本勉強よ」
「どうしてピアニストにならなかった?」
「あら、これからなるかも知れなくてよ」
阿難が喋るのだ。恋をする女は恋人を前たして喜びにみちている。
「お暇なら、これからきかせてあげる」
「どこで」
阿難は笑ったが何も云わずに冷いのみもののストローに口をつけた。
ダンス場はまだしんとしていた。開場までに一時間ある。それに、今月はピアノのレッスンもない。
入口の事務所でピアノの鍵をもらって来た阿難は、静かに、ぬりのはげたアプライトのピアノの蓋をあけた。
「水の反映」透明で、しかもかたくない。露がころがってゆくような、そして、音にふれたいような欲望を起させる。
「阿難、素晴しい人だ」
仁科六郎は、弾き終った彼女の背後にちかづいた。
「阿難もよくひけたと思うの、だけどほめられて嬉しい」
斜めに首をまわした阿難の頬は紅潮していた。
「阿難」
仁科六郎は両手で阿難の肩を抱いた。阿難はしばらく酔っていた。だが、南原杉子にもどった。ダンスのレッスンがもうじきはじまるのだ。二人は外へ出た。六時に会う約束をして別れた。会う場所は、別れた角の喫茶店。常に同じ場所で会うことをお互に拒んだ。仁科六郎は人目がうるさいから。
阿難はいつも新しい印象を与えられたり又与えたくもあったからだ。決った場所。決った時間。決った曜日。それは陳腐で倦怠の連続だから。
南原杉子はいそぎ足でカレワラへゆき、荷物を受取って(蓬莱和子は不在であった)レッスン場に戻った。五月後にタンゴのコンテストがある。彼女は競演するつもりでドレスをこしらえたのだ。荷物をあずけ、靴をはきかえて彼女はパートナーと練習をはじめた。すでに赤羽先生である。五日間は教授休業である。三四組、踊りに来ている人は勝手に隅っこで練習している。最初、クイックステップを二三回踊り、脚を楽にさせておいて、エキジヴィションのタンゴにかかった。五時半まで彼女は踊りつづけた。その間、阿難の片鱗すらない。
「阿難、一体何を考えているの」
仁科六郎は遂にたずねた。疑惑や好奇からではなく、又この女の実体をつかんでやれと云うのでもない。唯、理解したかったのだ。
「阿難はあなたのことを考えているの。考えていると云うよりおもいつめているの」
実際、阿難の云うことは真実であった。然し、南原杉子は、そういった阿難を傍観しているに違いない。仁科六郎は阿難と南原杉子を混然一体として考えている。
「阿難、僕が若し妻と別れて、阿難と結婚しようとしたら」
仁科六郎にその勇気はない。だが彼は阿難を理解する手段に始めて彼らしからぬ質問をしたのだ。それを南原杉子はみぬいていた。だが、阿難は答えたのだ。
「うれしいわ」
「じゃあ、阿難、いつか結婚しないなんていったこと嘘?」
「こんなにあなたを愛するとは思っていなかったの。阿難は始めて世の中に愛する人を発見したの」
「じゃあ、僕に接している一人の女性、僕の妻をどう思うの」
「御目に掛れば嫉妬するでしょう。阿難はにくむかも知れません。でも、今は、あなたの奥様、幸せな方だと思うわ」
「幸せ? だが僕は妻を愛しちゃいないんだよ」
「でも、奥様は愛されていると思ってらっしゃるでしょう」
「夫の義務は行っているからね。僕は妻をいつわっていることになる。みえない部分ではね。仕方ないことだ。苦痛。だが苦痛よりも阿難とのよろこびの方が大きいのだ」
「一番幸せなのは阿難です」
阿難は二度その言葉を口にした。それは仁科六郎に大きな満足をあたえたのだ。阿難は、仁科六郎の頬に強く頬を押しあてた。
――阿難、どうして結婚して下さいと仁科六郎にたのまないの。出来ない。南原杉子。南原杉子は、仁科六郎と結婚したいとのぞまない。毎日の生活、習慣になった愛情の表現。それは退屈であきあきするに違いない。そればかりではない。自分の感覚をすりへらしてゆかねばならない。妥協はもっとも嫌悪するところの行動なのだ。南原杉子は、世の多くの女性を不幸だと思い嘲笑もしている。仁科六郎の妻に対してもだ。ああ、蓬莱和子。彼女は、彼女と彼女の夫との状態はどうなんだろう――
南原杉子はふと笑いを洩したのだ。
「阿難、僕は阿難にはっきり云うことがあるのだ」
「なあに」
「蓬莱和子のことだ。僕と彼女は何でもない。一昔たった一度の交渉があったきりなのだ。僕はひどく酔っていた。それまでのこと」
阿難ははっとした。けれど南原杉子は知っていたことなのだ。南原杉子は阿難にうなずかせた。
「云わずに済むことだ。しかし、僕は打明けておきたかったのだ」
仁科六郎は、蓬莱和子と阿難(本当は南原杉子なのだが)との親密さが不気味であり、蓬莱和子がそのことを打ち明けているのじゃないかと戸惑ったのだ。だから、例の、頬をはられた事件までつぶさに語ったのだ。南原杉子は、仁科六郎を頬笑ましい男だと思った。そして、蓬莱和子を少し見降した。阿難はひとみをかがやかせた。
「うれしいわ、何でもかくさずにおっしゃって頂いた方が、阿難の愛は少しも変りません」
「阿難は蓬莱女史をどう思っているの」
「きれいな人だと思うだけよ。でも真実うりますには閉口。あなたと親しいつきあいらしいので、それはあんまりいい気持じゃなかったわ。でもね。阿難は、こう解釈するの、阿難とあなたの出会いより、あなたと彼女の出会いの方がさきだとみとめなければならないと思うの、それだけ」
二人が駅で別れた時、雨が降り出した。二人は今日になって始めて、愛だとか愛にまつわりついたことを喋り合ったのである。南原杉子はそのことをあまり快く思わなかった。彼女は言葉が不便なものだと思っている。言葉を信じない。行動もまた信じない。愛だとか恋に対して彼女は、相手の肉体の存在がなければなりたたないと思っている。
――阿難、恋のために悩み、苦しむことは凡そ馬鹿げているのじゃなくて、私は、阿難に恋をしろとすすめたのだけど。私は、すべて信じないという信条より、一切の嫉妬や焦燥、苦悩を否定することが出来るのよ。だって、一体自分に対して自分をどれ程にも信じていないのだから。私は、南原杉子は、享楽と虚無とそして個人主義に徹底しているのかも知れないわね――
南原杉子は、阿難に云いきかせはじめた。
――へへえ、阿難は恋するの、どこまでも仁科六郎を。そして悩むの、悩んでいるのよ。あの人とのこと、悲劇に終るように思うけれど、阿難はひたむきよ――
――阿難の部分がひろがってゆくのね。阿難の悩みが重荷になってゆくのね。もっともっと悩むとすれば、もっともっと恋こがれてゆけば
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