澄ましすぎるわ」
南原杉子は、にっと笑いながら、スーツの上着を脱いだ。真白い袖なしの絹のブラウス。誰でも、長い下着をきこんでいる季節なのだ。だから露わにのびのびした腕が、うす緑の電光のもとで、かなり刺戟的にみえて、しばらく、仁科六郎も蓬莱和子も黙っていた。南原杉子は、仁科六郎が、黒のいでたちをほめてくれなかったことに逆襲したのだ。
「さむくない。お若いのね」
「私、冬中、いつも上着の下はこうなのよ」
「活動的なお杉らしいわね」
話がいり乱れて来た。随分のんだからである。スタンドをはなれて踊っている他の御客のあしもともおぼつかない。ジャズは甘さと哀愁をふくんで三人の間にもしのびこんで来た。
「お杉、ダンスできるの」
「ええ、あなたも?」
「私、しらない。六ちゃんと踊りなさいよ」
「女史、踊る?」
南原杉子はたち上った。蓬莱和子はスタンドの中のマダムに例の饒舌開始の姿勢をとった。仁科六郎の踊りは全く下手の度を越していた。しかし、南原杉子は、その足のはこびに従順に踊った。蓬莱和子はふりむきもしない。けれども、背後を意識していることがはっきりわかる。南原杉子は左手を少しのばして仁科六郎の首筋のあたりにふれてみた。仁科六郎は右手に力をいれた。素早く唇と唇がふれ合った。
「六ちゃん。羨しいわね。お杉と踊れて」
一曲終った時、ふりかえった蓬莱和子が、仁科六郎に片目をつぶって声をかけた。
「ママさん、私がリードするから踊って頂戴」
南原杉子は、四十歳の蓬莱和子が突然はなやかにみえたので、彼女の肉体にふれてみたいと思ったのだ。
「まあ、うれしいわ。お杉。教えて下さる?」
高い椅子からとび降りて来た蓬莱和子を、南原杉子は軽く抱いた。
「両手を私の肩にのせて、あしに力をいれないで、四拍子でしょう。曲にあわせて」
南原杉子は、蓬莱和子のしなびた肉付きをウールのスカートの上から感じた。
「足をみないで」
蓬莱和子は顔をあげた。目の下のたるみと、たるみがなす黒いくまと、額ぎわの細い皺とが、少しくずれかけた化粧を通して、はっきりあらわれているのを、南原杉子は観察した。しかし、彼女は、決して優越感を抱かなかった。何故なら、容貌は昔美しかったことを物語っているがすでに容色はおとろえている。肉体は貧弱で、感覚はまるで零。才智は浅薄。しかし、魅力があるからだ。妖気があるからだ。もてる女だと自負している蓬莱和子なのだ。一体、何ものが蓬莱和子を華美な存在にしているのだろう。南原杉子は、蓬莱和子に対して今までない興味が湧き上って来た。一曲終った。
「うれしかったわ。あなたと踊れて。うろおぼえに男足知っててよかったわ」
南原杉子の態度は一変した。仁科六郎は、不可解な顔をした。それ程、急に南原杉子は、親しいやさしみのあるせりふを蓬莱和子に提供したのだ。
「あら、私こそ。これから度々踊って下さいね。あなたは素晴しい人ね、好きよ」
「わたくしも好きですわ。美しい人は好き」
蓬莱和子は有頂天になったのだ。私は又一人もてたのだ[#「もてたのだ」に傍点]と。
「六ちゃん。やかないでね、女同士だからいいでしょう」
「おかしな人達だ」
南原杉子は、スタンドの上のビールのこぼれたあとに、指を二三度たたいて、仁科六郎の前に三角形をかいた。そしてすぐ消してしまった。
南原杉子は下宿の二階で、畳の上に又三角形をかいた。途端に彷彿と、阿難が浮んだ。
――阿難が居るんだわ。阿難は仁科六郎に恋をしているんだわ。阿難は、蓬莱和子を問題にしていないわ。阿難、お前は、南原杉子をどう思っているの?――
阿難は答えなかった。
五
「お杉は誰かと一しょにくらしているのよ。屹度。だけど、お杉にはスカッとしたところがあるから、アプレじゃないわね」
蓬莱和子は仁科六郎に云った。彼は黙っている。
――僕達、(仁科六郎は自分と阿難を平然に僕達と考えてしまっている。そして又、意識の中に無意識にすでに阿難と呼んでいる)は、度々会っている。そしてお互に現実の相手を、知りあっている。そして又愛し合っているに違いない。だが僕は阿難について何一つ知識がないようだ。僕はきかない。彼女も云わない。又、彼女はワイフのことを、全く、どんな方ともききゃしない。蓬莱和子とのことは唯一度ふれたにすぎない。阿難には嫉妬心がないのか。それとも、単に刹那の快楽の対象としての僕なのか。いやちがう。そんな風にはどうしても感じられない。それに、彼女に男が居ないことも確かだ。彼女は新鮮。常に新鮮だから。だが不思議な関係だ。沈黙のうちに成立した恋人同志。愛してます、とさえお互に云い合ったことがない。沈黙のうちに信頼し諒解してしまっている。不思議だ。然しこれでいいのだ。まったく自由であり、かえって永続する愛だ。いや、まて、自由ではない。僕は妻の体を抱く時にふと阿難を思い浮べてしまう。それは無形の束縛で苦痛なのだ。阿難と僕。僕達は未来のことをさえ語らない。破局、そんなことは考えられもしないのだ――
「六ちゃん。ねえ嫌よ。この頃、いつもむっつりしているじゃあないの。あなた本当にお杉に惚れてしまったのね。私はもうあなたの路傍の石になってしまったのね。私、何もあなたと十年前に戻ろうと云ってやしないわ。でも私には何でも打ち明けてくれる筈でしょう。ああ、いやききたくないわ。わかってます。わかってるのよ」
蓬莱和子は思いきり強く仁科六郎の頬を打った。仁科六郎は打たれたことを何とも感じていなかった。彼は阿難のことしか考えていなかったのだ。
それは、三人の会見後、又二週間もたった日の午後十時。飲酒の後の露地であった。仁科六郎と蓬莱和子のその日はまだつづく。二人とも、しきりに飲むことを要求し、気づまりな表情で又のみはじめ、のみ終えた時、蓬莱和子の乗る神戸行の電車はもうなかった。
「家へ泊りに来なさい」
蓬莱和子は度々外泊している。しかも、昨日も一昨日もだ。彼女はすぐに仁科六郎のあとに従った。蓬莱和子はまだ仁科六郎の妻を知らない。そして、電車に乗りおくれたことがよかったと思った。彼女は自信のある女性である。即ち、美貌に於いて。即ち才智に於いて。
仁科六郎は歩行をゆるめた。
「どのおうち」
「いや、まだまだだ」
「じゃあ、いそぎましょう」
蓬莱和子は機嫌がよかった。
「まだ遠いの」
「その角をまがればじきだ」
仁科六郎の歩みはますますのろい。
「どうしたの、のみすぎたのじゃない」
蓬莱和子は、先刻の気づまりな空気をさらりと忘れて、これから会う人の自分への信頼をたのしみにしている。それを感じた仁科六郎は苦々しく思った。彼は、ふと妻に同情したのである。
薄暗い電燈の下で彼の妻、たか子は靴下のつくろいをしていた。突然の侵入者にいささかうろたえてお茶の用意をはじめた。
「御食事はまだでございましょう」
「あの、私結構ですのよ。ほしくないのですから、本当にこんな夜分御邪魔して」
「僕、食うよ」
仁科六郎は、いつもたか子が食事をせずに、彼の帰りをまっていることを知っていた。夫婦が食事をしている間、蓬莱和子は傍で御喋りをはじめた。
「本当にいい御夫婦ね、うらやましいわ。いい奥様で、あなた御幸せね」
食事が終った。仁科六郎は苦々しい思いをかくして、たか子にやさしく言葉をかける。たか子はそれを喜んだ。
――夫が私を愛してくれること他の女の人にみせるのは気持がいいわ――
そして、蓬莱和子の巧みな話術に、最初抱いた恥辱のようなものもすっかり消されていた。たか子は絶対に夫を信じている。夫に愛情を持っている。そのことは蓬莱和子のまっ先に理解出来たことである。
「ごめんなさい。ねえ、わたし、ちょっと、あなたをうたがったの、あなたをよ、わるかったわ。ゆるして頂戴。あの方いい方ね」
蓬莱和子が二階の部屋に案内された後、寐床をとりながら貞淑な妻は夫にささやいた。三時頃である。それまで三人は愉快に世間話をしていた。蓬莱和子は、彼の妻の信頼を得たことを確認していた。そしてすぐに眠りについた。おそるべき無邪気さである。彼女は、南原杉子にしか嫉妬しない。仁科六郎の愛撫の対象がたか子なら、彼女は別段何とも思いはしない。かえって、階下の様子を空想してたのしく思ったのだ。よくある仲人マニアの色情的快楽に似ている。おかしな優越をふくんで。
仁科六郎は一睡も出来なかった。二階の女のことよりも、安心しきって眠っている妻のことよりも、彼の意識に阿難が笑っているからなのだ。蓬莱和子は南原杉子の名前を一度もたか子の前で口にしなかった。仁科六郎も勿論云わないでいた。彼は、話題に出なかったことにほっとしたのだが、かえって、わざとらしい蓬莱和子の態度を苦々しく思ったのだ。仁科六郎は、たか子の静かな眠りをさまたげたい気がした。そして、彼女の両眼に、唇を押しつけた。たか子は眠ったままであった。彼の中の阿難は、まだ微笑しつづけている。仁科六郎は、明日こそ、阿難の正体をつかんでしまうのだと、決意した。
夜明け近い。南原杉子は、眠られぬ一夜をすごした。
――阿難、お前よく考えなきゃ。仁科六郎は今の状態をつづけていることに満足なのかも知れないけど、あの人には妻があるのよ――
――何を云つても駄目だわ、阿難は、既にレールの上を走っているのよ。ブレーキは持っていない。――
――じゃあ、南原杉子の行先は何処? ――
――阿難が、南原杉子をひきずって走ってゆくのよ。でも、阿難の行先もわかってはいない。目を閉じて走っているんだわ――
――あの人と、結婚出来ないのよ。いつかは……――
――云わないで。――
――阿難。私は恋をしている阿難を愛しているのよ。でも、でも、みじめになっちゃいや。みじめになる位なら……――
――いえ、出来ない。阿難は走ってゆく。どこまでも――
六
カレワラに、アネモネが一ぱい活き活きといけられてあった。南原杉子が、花屋におくりとどけさせたものである。
「おまえに花が贈られるとはね。どうも、おくった人の感覚を疑いたくなるよ」
「云ったわね、一度、会わせてあげるわ」
「素晴しい人だというけど、女なんてものは大方どれもおなじだよ」
「おんなじだったら、いい加減に浮気もあきたでしょう」
「大方同じだが、大方でないところを発見するのが面白いんだね、時にお前の方はどうだい?」
「ええ、あたしは相変らずですよ。あなたをのぞいた他の男には大いに興味がありますからね」
「まあせいぜいやったがいいね。だが、外泊が三日もつづいたとなりゃ、いくら、妻の浮気公認の亭主だと云っても、亭主としての義務上、一応心配してみるね、どこかで怪我か病気でもしてやしないかと思ってね。心中てなことはないと思うがね。やっぱり多少はお前とつながりがあるんだからね。ずるずるひもをたぐられて、俺に責任がかかって来るようなことなきにしもあらずだからね」
「御親切様ね。その位の御気持あるなら、せっせとかせいで下さいよ。月一万ぽっちじゃくらせませんよ」
「そりゃそうだ。だが浮気の話と別間題。俺の浮気は二時間で済むが、お前のは三日だからね」
蓬莱和子とその夫建介は、暇なカレワラで無駄な云い合いをつづけている。蓬莱和子は、夫を知り抜いているつもりである。口では、浮気々々と云っていても、実は臆病で何一つ出来ないと思っている。実際のところは、建介は派手に女遊びをするが、一人の女性と長く関係したりすることを馬鹿馬鹿しく思っている。凡そ、愛情なんてものは、瞬間に感じるもので、瞬間が瞬間でなくなった時には、既に、アンニュイだと考える。その上、肉慾しかない。彼は又、妻に対して妻を一つの道具としか考えていない。道具は道具の性能がある筈、ところが妻は第一の性能の子供をつくることをしない。出来ないのだ。第二の性能、家の中を片付け、料理をつくって夫の帰りを待つことをしない。妻としては失格。だが、建介は妻の美貌を人から羨まれて来たことにのみ、妻の性能を認めてしまった。それも一昔。今は何も妻にはないのだが、
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