「阿難」

 傍の喫茶店の奥まったところに二人は向い会って坐った。仁科六郎は、紡績会社へ二度程電話をした。二度とも彼女は不在であった。とにかくどうしても今日会わねばならないと思っていたのだ。阿難も又会いたかったのだ。
「会いたかったのよ」
「僕もだ」
「何故かしら」
「僕もわからない」
「でも、会ってほっとした」
「そうだ」
 二人とも不安も疑惑も消えてしまっている。きく必要のないことはきかない。又云う必要のないことは云わない。これは仁科六郎の信条であった。南原杉子はちがう。彼女はきく必要がなくても相手の返答をたのしみたい。云う必要のない時も云ってみたらという好奇心がある。ところが阿難は、もう完全に仁科六郎を信じて疑わなかったから何も云わないのだ。阿難は、南原杉子と異質である。恋をする女である。嫉妬もする。だからこそ、仁科六郎に会う迄、心に不安があったのだ。向いあった今、それはすっかり消えている。
「阿難は幸せだと思うわ」
 阿難はにっこり笑う。仁科六郎も笑ってうなずいた。と、テーブルの下に置いてあった楽譜がふと床下に落ちて、仁科六郎のあしもとにころがった。
「楽譜?」
「ええ」

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