谷山女史の方は気がつかない。何故なら、南原杉子の容貌は非常に印象的であるにかかわらず、自分の歴史を自分でまったくおおいかくしているのだから、表面におくびにも東京時代の南原杉子をにおわせていない。谷山女史ともう一人のつれの男は、マダムにしたがって奥の部屋へはいった。南原杉子は、水を一度にのみほすとかきものをつづけはじめた。もはや谷山女史のことなど忘れている。が、やがて奥の間からきこえてきたピアノの音と、女の歌声はきいている。うたっているのはマダムにちがいない。そのうち、一人、二人、楽譜をかかえた若い女性がやって来ては奥へ通ってゆく。
 南原杉子が、かきものを終えて、万年筆を机上にころばせた時、「おお」と声がした。
「何だ、やっぱりあなただったの(実は気付いていたのだ)」
「さっき、わからなかった。髪の型がちがうとまるで違うのですね。相変らずいそがしいですか」
 南原杉子の傍の椅子へかけた男は、せわしく煙草に火をつけた。煙草を吸いに奥から出て来たようである。南原杉子も煙草をとりだした。
「ポルタメントつけすぎね。ここのママさんは趣味でうたをならってらっしゃんの」
「まあ趣味かな。でも関西じ
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