だ。
「阿難、僕は阿難にはっきり云うことがあるのだ」
「なあに」
「蓬莱和子のことだ。僕と彼女は何でもない。一昔たった一度の交渉があったきりなのだ。僕はひどく酔っていた。それまでのこと」
阿難ははっとした。けれど南原杉子は知っていたことなのだ。南原杉子は阿難にうなずかせた。
「云わずに済むことだ。しかし、僕は打明けておきたかったのだ」
仁科六郎は、蓬莱和子と阿難(本当は南原杉子なのだが)との親密さが不気味であり、蓬莱和子がそのことを打ち明けているのじゃないかと戸惑ったのだ。だから、例の、頬をはられた事件までつぶさに語ったのだ。南原杉子は、仁科六郎を頬笑ましい男だと思った。そして、蓬莱和子を少し見降した。阿難はひとみをかがやかせた。
「うれしいわ、何でもかくさずにおっしゃって頂いた方が、阿難の愛は少しも変りません」
「阿難は蓬莱女史をどう思っているの」
「きれいな人だと思うだけよ。でも真実うりますには閉口。あなたと親しいつきあいらしいので、それはあんまりいい気持じゃなかったわ。でもね。阿難は、こう解釈するの、阿難とあなたの出会いより、あなたと彼女の出会いの方がさきだとみとめなければならないと思うの、それだけ」
二人が駅で別れた時、雨が降り出した。二人は今日になって始めて、愛だとか愛にまつわりついたことを喋り合ったのである。南原杉子はそのことをあまり快く思わなかった。彼女は言葉が不便なものだと思っている。言葉を信じない。行動もまた信じない。愛だとか恋に対して彼女は、相手の肉体の存在がなければなりたたないと思っている。
――阿難、恋のために悩み、苦しむことは凡そ馬鹿げているのじゃなくて、私は、阿難に恋をしろとすすめたのだけど。私は、すべて信じないという信条より、一切の嫉妬や焦燥、苦悩を否定することが出来るのよ。だって、一体自分に対して自分をどれ程にも信じていないのだから。私は、南原杉子は、享楽と虚無とそして個人主義に徹底しているのかも知れないわね――
南原杉子は、阿難に云いきかせはじめた。
――へへえ、阿難は恋するの、どこまでも仁科六郎を。そして悩むの、悩んでいるのよ。あの人とのこと、悲劇に終るように思うけれど、阿難はひたむきよ――
――阿難の部分がひろがってゆくのね。阿難の悩みが重荷になってゆくのね。もっともっと悩むとすれば、もっともっと恋こがれてゆけば
前へ
次へ
全47ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
久坂 葉子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング